おまけ:若返りは術にあらず
密林の中につくられた街道っていいわね。雰囲気はいいのに歩きやすいわ。簡素な道とはいえ十分よ。ぐ……
「ブハー。ハァ。ハァ」
ふえぇ、限界だわ。
「どうした?」
「苦痛で精神を鍛えるという話。前にしていたわよね。試しに息を止めてみていたのよ」
これなら肉体的な損傷をともなわないわ。それでいて筋力アップにはつながらないから喜べない苦痛よ。
「なぁる。それだったら喜んではいそうにないな。効果はありそうか?」
「よくわからないわ。我慢の限度を伸ばせそうな気はするわね」
どこまで我慢できるかが精神力次第ってことらしいから、効果がある気はするのよ。
「肺活量が増えるだけじゃないのか」
「そうかもしれないわ。精神鍛錬の効果を見る方法なんてないからねぇ」
不確実でも可能性があるならやっておこうと思うのよ。旅を続けながら使える手段なんて、多くはなさそうなのよね。
視界が開けてきたわ。密林を抜けそうよ。
「うわぁ。大きな湖ねぇ。果てが見えないわよ」
ここは少し水面よりも高いから、水平線まででも10キロメートルくらいはあるのかしら。
「向こう岸まで、どんだけあるやら。息を止めて潜っていくか? かなり鍛えられそうだぞ」
「絶対に無理よ」
さすがに水中で限界に挑戦したら溺死しかねないわ。水場での鍛錬方法を別途考えるべきね。
あら。水辺が広い砂利場になっているわ。湖にしては雰囲気が変ね。
「これ川じゃねぇの。ゆっくりだけれども水が流れているぞ」
へ。……本当だわ。一応は流れているわね。
「これが川? 水平線しか見えないわ。どれだけ大きな川なのよ」
川にしては、よどんだ水ね。深く流れが遅いせいかしら。湖のような、においはほとんどないわ。濁ってはいても汚いわけではないのね。
水質は問題ないとしても大きさは問題だわ。果てが見えないのよ。
「どっちにしても迂回は無理だな」
つまり川向うから呼ばれているのね。渡河するしかないかしら。
「泳いでもいいわよ。でも、あんたは体力もつ?」
どれだけ大きかろうと川なら泳ぎきれると思うわ。急流でもないしね。少しでも流れがあるのなら、先が見えなくても方向を誤ることはないはずだわ。
とはいえ、さすがにアルフを担いでいこうとまでは思わないわよ。
「こないだ浮き輪を買ったじゃねぇか。出してくれよ」
「あぁ。釣り用に買ったものがあったわね。でも川よこれ。前に進むよりも流されると思うわ」
船とは違うわよ。浮き輪は水の流れに逆らうことには向いていないからね。湖での釣りには使えても、渡河においては邪魔になりかねないわ。
「どうだろ。見た感じだと大丈夫そうな流速ぽいけれども。奥のほうで早くなるかな」
意識しないとわからない程度の速度だものね。渡れる可能性もあるかしら。
「まぁ、やるだけやってみますか」
アルフの肺活量は微妙だからあたしが膨らませるわね。フー。ほら一発よ。
って、いきなり取り上げないでよね。
「さぁ行っくぜぇ! ……っと、待った」
あら。入水直前で足を止めたわね。
「なによ」
遠くの水面を凝視しているみたいだわ。いまさら距離に怖気づいたんじゃないわよね。
「あれ雷魚じゃね」
うぇ。そんなのがいたら渡河は無理よ。
……うわ、いるわ。電光をまとって跳ねる魚の群れが見えるわね。浮き輪なんて速攻で破砕してくれるはずの猛者よ。
「……これだけ広いとほかにもやばそうなのがいっぱいいると考えるべきかしら」
水中の危険な獣も数多く知られているのよね。こちらの動きが制限される分、陸上の獣よりも危険度は高いわ。広さから考えれば、質も量も警戒すべきよね。
「マアマに、なんとかしてもらえってことか?」
「そうする?」
それが最善の手だとはあたしも思うわ。
「それはそれで、なんか負けた気がするよな」
誰となにの勝負をしているのよ。
「考えずに頼ることにしたんじゃなかったの」
自力で渡ることに、こだわる理由は既にないはずよね。
「そうなんだけれども。マアマは最終手段かなぁ。飛び越えちまうのはもったいない気がするし」
もったいないねぇ。あぁ。ここに呼ばれた意図、つまりはあたしたちの糧となる要素があるかもしれないということかしら。
「まぁ今までのことを考えればね。呼び先よりも、移動の過程に意味がありそうな気はするわ」
アルフの気持ちはわかるわね。呼び主の意図は相変わらず不明よ。でも道中の経験は大きな糧になっているわ。ここにもなにかがある可能性は高いのよ。飛ばしてしまうことは好ましくないと思えるわ。
「とするとだ。川を渡る方法がどこかにありそうなもんだが…… 間欠泉みたいなのはパスな」
それは当然ね。なら周囲を観察してみるわ。
町が近いのかしら。まばらに人が散歩をしているわね。
「お。あれ渡し舟じゃね」
どれどれ。うん、船はなかなか頑丈そうね。雷魚に壊される心配はなさそうだわ。
そばに佇むご老人が渡し守かしら。既に腰が曲がっているわよ。対岸まで櫓をこげるのかは怪しく見えるわね。
「本当だわ。お年寄りぽいわよ。大丈夫かしら。とりあえずは、お願いしてみましょうか」
乗せてもらえなくても、参考になる話を聞けるかもしれないわ。渡河の経験はありそうだものね。どう切り出したものかしら。
「じいさん。これ渡し舟か? もしそうだったら俺たちを対岸まで運んでほしいんだけれども」
ちょ。またやられたわ。先にアルフを止めておくべきだったわね。
気さくというよりも、上から目線にすら思える言葉遣いよ。第一印象を悪化させるメリットなんてなにもないわ。
「あんたは黙っていなさい。話し方が無礼すぎるわよ。他人に話しかけるのは、あたしに任せて」
誰にでも話しかけるのはいいことだと思うわ。でも口の利き方というものがあるのよ。
「えー。呼ばれているのは俺だし。俺がやるべきだと思うんだけれどもなぁ」
同感よ。礼儀さえ学んでくれたならこちらからお願いするわ。
「ほえ。しばらく休んだら対岸へ戻る予定ではあるが。移動なら瞬間帰還器でよかろう」
ほ。無礼を気にされてはいないみたいね。よかったわ。
「対岸にも町があるのですね」
これだけ広い川なら、渡河用に町がつくられていても不思議はないわ。
「あぁ。30分ほど歩けば川辺に町がある。その対岸にも町がある。移動は皆そこを使っておるよ」
とりあえずは安全確実な移動手段を聞くことができたわ。とはいえ瞬間帰還器を使っては、マアマさんに頼む場合と大差ないのよね。
「ありがとうございます。でも飛び越えるのがもったいないと言いだす連れがおりまして」
あたしもそうとはいえ、理由を説明しづらいのよね。連れのせいにしたほうが説明しやすいわ。
「ほっほ。これは若いのに通じゃな。よかろう。30年ぶりくらいでよければ乗せてやろう」
「え。渡し舟を営んでおられるのではなかったのですか」
引き受けてもらえたのはよかったわ。でも30年ぶりってどういうことよ。
「両岸に町ができてからは客なんざおりゃせんよ。釣りや観光には危険すぎる川じゃしな」
現役にしては老いすぎていると思っていたのよね。だから廃業済みかもしれないとは思っていたわよ。でも廃業済みなのに乗せてもらえるとは思っていなかったわ。
「そっか。瞬間帰還器なら便利で安全ですもんね。でもそれで船が廃れるのは寂しいわ」
言われてみれば、よどんだ水に危険な雷魚がうじゃうじゃいるのよ。危険を冒してまで渡河したいなんて物好きはあたしたちくらいなのかもしれないわ。
「しかし…… 近くで見ると嬢ちゃんの荷物はすごいのぉ。重すぎて船が沈んでしまうかもしれん」
冗談のきついおじいさんね。荷物なら減らしまくったあとよ。今は服で重量を確保しているものね。
「大丈夫ですよ。そんな重いものを、かよわい娘に持てるわけがないですよね」
ねぇ、アルフにガルマさん。……どうして黙って川のほうを見ているのよ。聞こえていないのかしら。フォローくらいはして欲しいわね。
「それもそうじゃが。まぁ乗ってみて重すぎたら諦めてもらうぞ」
心配性ね。まぁリュックの大きさだけは結構あるから仕方がないのかしら。
「それでお願いします」
仮に重すぎたとしても、マアマさんが完璧に対応してくださるのよね。
「あとは…… そうじゃ。対岸まで4時間ほどかかる。船酔いは大丈夫かね」
おじいさんじゃゆっくりとしかこげないわよね。果てが見えないほどの川幅じゃ4時間くらいは当然だわ。
あたしは乗り物酔いをしたことがないから大丈夫なはずよ。
「4時間! そいつは大変だ」
あら。村の生活でアルフを船に乗せた機会はなかったはずよ。
「あんた船に乗った覚えがあるの?」
いまさら記憶が戻ったとは思いがたいわ。船酔いを警戒しているだけなのかしら。でもそれも能天気らしくはないわね。
「いや。4時間も飯を食えないのは大変だろ」
この返しは予測すべきだったわ。いまだに慣れきっていないわね。
「はいはい」
まぁアルフが船酔いを心配する必要はないわ。もしアルフが酔ったら永眠しない程度に眠らせてあげるからね。眠っていれば苦しまずに済むわよ。
まずは、食事を終えるまで待っていただけるかをおじいさんに確認しないといけないわ。
「先に食事をとってもよろしいでしょうか」
我ながら身勝手な客だわ。いきなり押しかけておきながら、食事を終えるまでは待てだなんてね。あたしのせいじゃないとはいえ心苦しいわ。まぁ断られたら素直に諦めるわよ。
「それがよかろう。出発までは間がある。満腹でも空腹でも酔いやすくなる。ほどほどにな」
よかったわ。まだ時間に余裕があったのね。
アルフのわがままとはいえ、ちょうど飯どきが近いのもたしかだわ。おそらくはおじいさんの食事もこれからよね。
「ありがとうございます。よろしかったらご一緒しませんか?」
食事はみんなで楽しくとったほうがおいしいわ。
「今日はこの辺りの貝を集めて食べようと思っておったんじゃ。なにも持ってきておらんぞ」
なにも、ということは、安定してかなりの量を採れるのかしら。
「おぉ! 最近貝は食っていねぇな。俺たちもそうしようぜ」
いいわね。これから集めるのなら、おじいさんの分もまとめて集めればいいのよ。
問題は分量ね。満腹でも空腹でも酔いやすいと言われたところなのよ。
「じゃあマアマさんにお願いしますか。みんなが腹八分目くらいよね。どれくらい集めればいいのかしら」
どんな貝かも知らないから、自分の分すらも想定しがたいわね。
「大丈夫ー」
へ。
自分の分量すら見当がつかなくて悩んでいるのに、どうしてマアマさんにそこまでわかるのよ。
って、口頭でつっこむまでもないかしら。考えたことは読まれているんだものね。
「あら。量まで任せちゃって大丈夫なの。本当に助かります」
「どっかーん」
ではお手並み拝見といきますよ。ほいっと。
焼かれた貝が降ってきたわ。各々の前に適量を配ってくれたのね。これなら分量を間違えないわ。
「ひょえ。手品かね」
しまったぁ。つい事前説明を忘れてしまっていたわね。ムダに驚かせてしまったわ。
「あはは。似たようなものですかね。どうぞお召しあがりください」
マアマさんでの狩りに慣れすぎちゃったわね。周囲の目を気にする必要があるわ。さもないと大騒ぎにもなりかねないわね。
「たしかにここで取れる貝じゃが…… こんなにうまいと思ったのは初じゃわ」
よかったわ。さほど警戒せずに食べていただけたわね。
「マアマの焼き加減は絶妙だからな」
うんうん。貝料理もやっぱりマアマさんなら最高の仕上がりだわ。
「マアマさんとやらは大したもんじゃな。ワシもこの貝の調理には結構自信があったのじゃが」
本当にね。人の中では世界一だとしてもかなわないと思いますよ。
でも、随分と素直に受け入れるわね。マアマさんの姿が見えないことは気にならないのかしら。
「おかわり! ……はダメだったな。腹八分目って微妙だな」
同感よ。いつも満足するまで食べていたからストレスだわ。
「もう少し食べたいってところで抑えるからねぇ」
まぁ、お茶を飲んで一服していたらお腹も落ち着いてきたわ。
「じゃぁそろそろ行くかの」
準備は万端よ。ただ、ひとつだけ気がかりだわ。呼び主が騒動を用意しているとしたら、おじいさんを巻き込みかねないのよね。そのときは最優先で護らなくちゃいけないわ。
「お願いします」
では乗船させていただきますよっと。
「本当に軽い荷物のようじゃな。まったく船が沈まん」
当然よ。そんなに心配されていたのなら、先に乗って見せればよかったわ。
みんな乗船し終えたわね。操舵はおじいさんにお願いするとしても、櫓はあたしがこいだほうがいいかしら。
あら。おじいさんは腰を落としてなにかを操作しているわね。っとと。なにかの動力音と共に船が振動を始めたわ。
何事よ。おじいさんに確認を…… って、この人誰かしら。
いや、おじいさんよね。若者のように、すっくとかろやかに立ちあがったわよ。
腰が曲がっていないわ。それにビシっと姿勢よく…… いや変なポーズを決めだしたわよ。
「ん~じゃ行くぜベイベ! ヒャッハー!」
……櫓はマイクじゃないですよ……
「はい? あの…… きゃっ」
すさまじい加速で船が飛び出したわ。これ、ジェット噴射式の船なのね。櫓でこぐタイプの船に見えたわよ。
「おぉ~気持ちいい。これだったら4時間でも酔ったりしないんじゃね?」
どうしてそっちなのよ。おじいさんのことが気にならないのかしら。
でも言われてみれば、予想外の速度よね。
「このペースで4時間て。この川どれだけ広いのよ」
時速50キロメートルとしても川幅は200キロメートルよね。泳がなくてよかったわ。
「ヘイヘイヘイ! しゃべっていると舌噛むぜベイベ!」
船頭をしている間はずっとこの調子なのかしら。
「おぉ。気をつけるぜ」
アルフは全然気にしていないみたいね。やっぱりおじいさんに直接確認するべきだわ。
「というか。おじいさん。人が変わっていません?」
豹変した自覚はあるのかしら。
「お~っと客が来たぜ。頭下げなベイベ!」
「へ?」
こんなところに客ですって。なにを言っているのかしら。それも頭を下げろだなんて何様が来たというのよ。
おじいさんの目線からしてあたしのうしろよね…… うわっ。目の前に雷魚が飛びこんできていたわ。
「きゃー」
「あらよ!」
すご。櫓で雷魚を弾いたわ。それだけじゃないわね。反動で船体の軌道を操って接触をかわしたんだわ。
ここは船上なのよ。なんて力とバランス感覚と操船センスなのかしら。御老体とは到底思えないわよ。
雷魚だけじゃないわね。さまざまな水棲獣が次々と船を狙ってくるわよ。
「じいさん、かっけー」
本当に見事ね。櫓はこぐためじゃなくて水棲獣を弾くために持っていたのよ。
「ハッハー。この俺様を食おうなんざ50年遅いってんだ!」
ごめんなさい。なにを言っているのかがわからないわ。
「あはは。お客がいなくなったのって瞬間帰還器のせいだけじゃないかもね」
これを渡し舟と言い張るのは詐欺よ。安全だとしてもスリル系のアトラクションだわ。
え。なによ今のは。突然浮きあがるような感覚がしたわ。って、船が水面から浮いているわよ。それに進行方向が舳先と違うわ。
「おぉ? なんか水面が真っ黒になったぞ。変なほうに進んでいるし。あれは…… 目か?」
うわ。本当だわ。周囲一帯が真っ黒よ。進行方向の水面下付近に巨大な目がふたつ見えるわね。
これって、超大型魚の平べったい背に載せられてしまったんだわ。
「船頭なめんなやゴルァ」
へ。
ちょ。おじいさんが櫓を構えて水面に飛びこもうとしているわ。さすがにそれはダメよ。止めなくちゃね。
ん。なにかしら。甲高い音がしたわ。水中の目付近からみたいね。大型魚の声なのかしら。
あら。おじいさんが櫓を下ろしておとなしくなったわよ。それだけじゃないわ。腰を曲げた、もとのご老人の雰囲気に戻ったわね。
「なんじゃおんしか。まだ生きておったんじゃな」
え。腰をおろして船の動力を切ったわ。ここから脱出しないのかしら。
「大型魚のお知り合いですか?」
話しかけていたみたいよね。それに妙に落ち着いているわ。
「そうじゃ。長い間、見ておらんかった。もう逝ったのかと思っておったのじゃが。しぶといやつじゃ」
驚きだわ。人でも魚と意思疎通が可能なのね。
「魚と話せるのか。すげぇな」
「いやいや。若いころによく戦っていただけじゃ」
意思疎通とは違うのかしら。よくわからないわね。
「戦っていると仲よくなれるのか。なんかそんな物語も聞いたな」
「何十年も決着がつかなくてな。お互いに老いて丸くなったんじゃろな」
今はたしかに丸いわ。でも船頭をやっているときは丸くなかったわよ。
それはさておき、船頭を放棄して大丈夫なのかしら。
「このままだと、どこに運ばれるかわからないのでは」
「大丈夫じゃ。ちゃんと対岸に向っておるよ。もう襲われる心配もない」
ふむ。この大型魚にはほかの水棲獣が近づかないということなのかしら。とんでもない大きさだものね。
「おぉ。つえぇんだな、この魚」
「ここらの主かもしれんな。80年は見てきたが、こいつ以上の大物は見た覚えがないのぉ」
ならブチ切れる前に気づいてよ。
って、つっこめる仲でもないのよね。
「80年ですか。本当にこの川がお好きなのですねぇ」
「あぁ。こいつと気があったのは、そこかもしれんな」
何事もなく対岸の川辺に到着したわ。
「結局2時間くらいしか、かかってねぇな」
「静かだった割にはすごいスピードだったのね」
さすがは魚の主らしいだけのことはあるわ。爽快感も安全性も抜群だったわよ。
常に大型魚が運んでくれるのであれば、渡し舟の人気が出るかもしれないわね。
「なんじゃおんし。いまさらワシとやりあいたいわけでもあるまい」
あら。大型魚はまだいたのね。
おじいさんに向かって、なにかを吐き出したみたいだわ。
「ん? こ、これは妻の形見」
「えぇ! 奥さんが食われちまったってことか」
そ、そんな。おじいさんとは打ち解けていたのよね。
「いや。妻は天寿を全うした。この形見は、うっかり川に落としてしもうてな。後悔しておったのじゃ」
「あぁ。さっきは水に飛びこもうとしていたしな。あんなことしていたら落とすわ」
驚かせないでよね。本当に無茶し過ぎよ。いまだに命を落としていないだけでも幸運としか思えないわ。
「そうか。しばらく見んと思ったら探しておってくれたのか。じゃがワシには礼もできんな」
あら。ガルマさんたら、なにを……
「言伝だ。お主が死んだら食ってやるから水葬にしてもらえ。と言っておる」
え。ガルマさんが大型魚から言伝を頼まれたのですか。
「ほっほ。ぬかしおるわ。ワシより長生きする気か。おぬしこそ逝くときは川原に来いよ」
「承ったと言っておる」
大型魚が川辺を離れたわ。なんというかワイルドな会話だったわね。
「一瞬で貝を集めて焼いたり。魚と話したり。長生きしとると不思議な人たちに会うもんじゃな」
いえいえ。どちらも人ではないのですよ。
「船に乗ると豹変したり、魚と仲がいいじいさんも、かなり不思議だと思うぜ」
むしろそっちよね。人としてはおじいさんのほうがよっぽど不思議だわ。
「ほっほ。だから船はやめられんのじゃ。ありがとうな。おんしらのおかげで悔いも失せたわ」
あたしたちというよりも大型魚のおかげよね。まぁガルマさんは粋な計らいをされたかしら。
「ありがとうございました。あたしたちも貴重な経験ができました。ではこれで失礼します」
おじいさんは形見が気になって仕方がなさそうだし、今はひとりにしてあげたほうがいいわよね。あたしたちは先へ進むわよ。
「そういや。あのじいさん。ガルマさんを見ても全然びびっていなかったな」
「そうね。ふつうに人と接する感じだったわ。年の功ってやつかしら」
みんながあぁなってくれれば理想なのよね。
「船頭としての道をきわめたら、あぁなるのかな」
「道ってそういうものかしら」
おじいさんからは進化を目指すような意図は感じなかったわ。
「船頭はただの職だ。あやつは船頭という職で道を定めようとしておるわけではない」
ふむ。以前に出会った錬金術師の方は、神に近づく道を選ぶ手段として錬金術をきわめられていたわ。でもおじいさんが船頭になったのは道を選ぶためではないのよね。
「でもさ。船頭やっている間のじいさんって若返っていたみたいだったじゃん」
「たしかに。肌は老いたままだったわ。でも、背すじまでしゃきっとして。中身は若い感じだったわよね」
性格までもが若返るというのは、ある意味で錬金術よりもすごいのかもしれないわ。
「道がうんぬんてのはわかんねぇけれども。あのじいさんがすげぇのはわかるわ。魚もすごかったな」
うんうん。本当に若返ったわけではないわ。でも若返ったかのように振るまえるだけでもすごいわよ。それがおじいさんの資質なのか、船頭としてきわめたからなのかはわからないわね。
大型魚もすごかったわ。大きいだけじゃなくて知能や理性も相当高いはずよ。
「あの大型魚はガルマさんに言伝をお願いしたのですよね。おそれるだけの人よりもずっと賢いのですね」
挨拶に来た大蛇はいたわ。でも大型魚は頼み事までするだなんてね。
「お主らが我に声をかけたときと同じだ。おそれる理由がなければ、おそれることはない」
あたしは思い切りおそれていましたよ。でも竜人様をおそれるかの話には関係がないのよね。正体不明であることと、外見をおそれていただけなのよ。
「おじいさんが形見を探していることも理解していたのですよね」
おじいさんの心中を察して、このだだっ広い川の中からあんな小さなものを探していたんだわ。
おじいさんは、長い間大型魚を見ていなかったと言っていたものね。きっと大型魚にとっても簡単なことではなかったんだわ。身体や能力だけじゃなくて優しさもとんでもないわね。
「人は言葉に頼りすぎておる。ゆえに意思の疎通が不得手になっておるな」
人にもできて当然のようにおっしゃるのね。言葉の存在が害だとおっしゃるのかしら。
「本来は人にも読み取れるはずなのですか。では言葉などないほうがよかったのでしょうか」
「伝えたいときに伝えたいことだけを伝える手段としては優れておる」
ふむ。言葉が害だと断定はされないのね。メリットも認めていらっしゃるわ。
「頼りすぎなければいいということですか」
「言葉は表現力が乏しく、伝える手段としては不十分だ。事実とは異なる言葉を紡ぐこともできる」
思い当たることは数知れずあるわね。
論理的に考えれば、言葉に依存することは極めて危険が大きいわ。
「そうですね。なんて伝えていいのかわからないとか。うそをつかれることとか。問題は多いですね」
「依存しすぎるがゆえに騙し騙されやすくなる。言葉が真実を示すとは限らぬことを前提にせねばならぬ」
わかってはいるのよね。ガルマさんみたいに意思疎通ができることには憧れるわ。
「言葉を使わずに気持ちを読む練習が必要ってことかぁ。読む以前に見る方法から考えないとなぁ」
理屈ではわかっても具体的な手段がないのよ。
これも今後の課題よね。いったん保留だわ。
「読んだのは心情だけはない。あの男は天寿が近い。ゆえに心残りを払拭してやろうとしたのだ」
ふえぇ。どんだけって感じよね。
「残り寿命まで読めるのですか…… 本当にすごい魚だったのですね。それに優しい」
「遊んでくれた礼をしたかったそうだ」
へ。話が違う気がするわ。
「遊びですか。おじいさんは戦いと言っていましたが」
「戦いになどならぬ力の差だ。近づいても逃げずに構ってくれることが楽しかったのであろうな」
おじいさんはきっと本気で戦っていたのよね。でも大型魚にとっては遊びでしかなかったのだわ。
「なにか似たような話を前に…… マアマさんの境遇と似ているのかしら」
「おいらといっしょー」
一緒、ね。誰にも構ってもらえない状況だったということなんだわ。
「そっか。人より強くて賢くて。それゆえに寂しい方はほかにもおられるのですね……」
人より優れた者が、竜の力を操る者とは限らないのよ。
世界で人が勢力を握っているということは、あの大型魚のような優れた種の絶対数が、あまりにも少ないのかしらね。
「ゴリラの獣人も出生率をうらやんでおったろう。人は増えすぎてありがたみを感じられぬようだがな」
「あのときはそんなに大切なことだと思いませんでした。数が大切というのは切実な本心だったのですね」
でも数を増やす手段というのは…… きゃー。
「今日はどこで寝る?」
ち、近。アルフったら顔が近いわ。
「きゃ。なによ。いきなり」
数を増やす行為なんて、て、てててて……
「いや。両川岸に町があるって話だったろ? ベッドがいいんだったら寄ってもいいかと思ってさ」
……焦って損した気分だわ。会話の流れから考えれば、てっきりそうだと思うわよ。誤解するのは当然よね。
「ハァ。気を使ってくれてありがと。でも少しは空気を読んでよね。あ。そうか空気を読む練習か」
ピンときたわ。言葉を使わずに気持ちを読むって、とりあえずは空気を読む練習でよさそうよね。
問題は言葉に頼りすぎていることなのよ。相手の心を直接読めなくても、言動や状況から間接的に相手の心情や考えを読むことはふつうに行われているわ。まずはその感覚を研ぎ澄ますべきではないかしら。
「空気は吸うもんだぞ」
「そうね。いいヒントをもらえたし。寝るところは任せるわ」
アルフの欠点が役に立つだなんてね。反面教師というものかしら。
「おぉ。川辺の町だとさっきの貝が出そうだな。マアマのよりはまずいだろうし。でも、うーむ……」
町の料理に期待できるか次第で行き先を決めるのね。そんなことで、いつまで葛藤しているのよ……
今日出た課題はすぐに対策手段ができてよかったわ。言葉に頼りすぎてはダメなのよ。意識して空気を読まなくちゃね。
さぁ旅を再開…… って、アルフはまだ葛藤しているわ。いい加減に町か野宿か決めなさいよね。そもそもおいしさで決めるのならマアマさん以上においしいものを出せる宿なんてないわよ。




