第9話 匂いの価値
【狐塚ラン視点】
神浦ヒカル。
あの子は、ただの人間だと思っていた。けれど、あの秘密の温室でアタシの尻尾を撫で回したあの指先の熱と、たまに発するむせ返るような甘い匂いは、間違いなくアタシたち獣人を狂わせる『劇薬』だ。
クロエに特注の道具を作らせる手引きをした数日後の夕暮れ。アタシは桜華学園の旧校舎、第4温室跡の裏手にあるゴミ捨て場に潜んでいた。
商人のキツネとしての勘が、アタシに囁いていたのだ。「あそこには、とんでもない金脈が眠っている」と。
やがて、温室の裏口からヒカルさんが現れた。彼女(いや、あの匂いからして本当に『彼女』なのかしら?)は、周囲を警戒しながらゴミ袋を一つ、ポイと捨てて立ち去っていった。
足音が完全に遠ざかったのを確認し、アタシは音もなくゴミ捨て場へと駆け寄った。
袋の口を開けると、中には刃がこぼれて不要になった安物のハサミや、何度か洗濯したもののほつれてしまった使用済みのタオルが数枚入っていた。
「……どれどれ、ただのゴミなのか、それとも……」
アタシは何気なく、その中の一番上にあったタオルを手に取り、鼻先を近づけた。
スゥ……と、息を吸い込んだ瞬間だった。
「っ……!? あ……ぁっ……」
ドクンッ!! と、心臓が肋骨を突き破りそうなほど激しく跳ねた。
タオルの繊維の奥深くに染み込んでいたのは、ヒカルさんが使っている市販のシャンプーの香りだけじゃない。その奥底から、脳髄を直接鷲掴みにされるような、強烈で、暴力的なまでに甘い『極上の匂い』が立ち上ってきたのだ。
膝の力が抜け、アタシはゴミの散乱するコンクリートの上にへたり込んでしまった。
「はぁっ、はぁっ……な、なによ、これ……っ」
下腹部の奥から、ドロドロとした熱い塊が込み上げてくる。全身の血が沸騰し、キツネ耳が勝手にピクピクと痙攣した。理性が、真っ白な雪のように溶けていく。もっと嗅ぎたい。このタオルを顔に押し当てて、匂いの主に乱暴に組み敷かれたい――そんな狂った本能が、頭の中でサイレンを鳴らしていた。
アタシはガクガクと震える手で、慌てて持参していた密閉チャックの付いたビニール袋にタオルを叩き込んだ。
「はぁ……はぁ……においだけで昇天するかと思ったわ……っ」
乱れた制服の胸元を押さえながら、アタシは荒い呼吸を整えた。
間違いない。これは、獣人の理性を根底から破壊する。
同時に、アタシの中の商人としての血が、恐怖を塗り潰すほどの歓喜で沸き立った。
「これは……売れる……! 一生遊んで暮らせるくらい、莫大な金になるわ……!」
+++
だが、この『匂い』の本当の威力を、市場に出す前に確かめておく必要がある。
翌日の昼休み。アタシは密閉袋をカバンに隠し持ち、学園の中庭へと向かった。ターゲットは、3年生のトラ系獣人の先輩だ。彼女はここ数日、発情期が近づいているせいで極度にイライラしており、周囲の草食獣人を威嚇して回っている危険な状態だった。
「先輩、ちょっとよろしいですか?」
「あぁん? なんだいラン。今、アタシは最高に機嫌が悪いんだ。八つ裂きにされたくなかったら失せな」
トラの先輩は、血走った目で低く唸り声を上げた。その威圧感に尻尾の毛が逆立つが、アタシは営業用の笑みを張り付けた。
「そう言わずに。先輩のそのイライラを、一瞬で吹き飛ばす『極上のリラックスアイテム』があるんです。ちょっとだけ、試してみませんか?」
アタシはカバンからジップロックを取り出し、ほんの1センチだけ、ジッパーの口を開けた。
微かな風に乗って、あの甘い匂いがトラの先輩の鼻腔へと流れていく。
「は……? なんだ、そりゃ……」
次の瞬間。先輩の瞳孔が、限界までカッと見開かれた。
ゴクリ、と喉を鳴らす音が聞こえたかと思うと、彼女の口元からダラダラと涎がこぼれ落ちた。
「あ、あぁ……っ! なんだ、今の匂いは……っ! もっと、もっと嗅がせろォッ!!」
「ひぃっ!?」
理性を完全に吹き飛ばした先輩が、凄まじい力でアタシに飛びかかってきた。鋭い爪がアタシの肩をかすめ、地面に押し倒される。猛獣の重圧と、発情した熱っぽい息遣いが顔にかかる。
「よこせ! それ、アタシにくれ!! いくらでも払う! いままで溜めた小遣いを全て出すから、それをアタシにィィッ!!」
「せ、先輩! ストップ、ストップゥッ!!」
アタシは命の危険を感じ、必死の思いで先輩の顔面を蹴り飛ばしてジップロックの口を閉め、その場から全速力で逃げ出した。
背後からは、「待て! 待てぇぇぇっ!!」という飢えた猛獣の咆哮が響き渡っていた。
……確信した。これは、ただの商品じゃない。
取扱注意の『劇薬』だ。アタシ一人の手には負えない。これを安全に、かつ最高値で売り捌くには、裏社会の絶対的な力が必要だ。
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その日の深夜。
アタシは学園を抜け出し、セントラル特区の境界線にある寂れた歓楽街――通称『闇市』の奥深くへと足を踏み入れていた。
紫色の煙が立ち込める薄暗いテントの中。豪奢なソファに深々と腰を下ろしているのは、この闇市を取り仕切る元締め、マダム・バクだ。
「……桜華学園の小娘が、こんな夜更けにアタシに何の用だい?」
バク系獣人のマダムは、長いキセルを吹かしながら、退屈そうに目を伏せていた。彼女は裏社会の酸いも甘いも噛み分けた、冷徹で底知れない怪物だ。少々のことでは動じない。
「マダム。今日は、とびきりの『夢』をお持ちしました」
アタシはテーブルの上に、厳重に何重にも包んだタオルと、刃こぼれしたハサミを置いた。
「ゴミの処分なら、他を当たりな」
「マダム・バクともあろうお方が、商品の価値を確かめずに突き返すんですか?」
挑発するように言うと、マダムは片眉をピクリと動かし、ゆっくりと手を伸ばして包みを解いた。
「……ただのタオ――っ!?」
匂いを嗅いだ瞬間。
カランッ! と、マダムの手から高級なキセルが滑り落ち、床に転がった。
常に余裕を崩さなかった彼女の目が、限界まで見開かれている。豊満な胸が激しく上下に揺れ、顔は一瞬にして朱色に染まっていた。
「はっ……ぁっ……な、なんだい、これは……っ!」
マダムは震える手で自身の胸元を掻き毟り、必死に理性を保とうと奥歯を噛み締めていた。だが、その瞳の奥には、隠しきれない極上の快感と、ドロドロとした欲望が渦巻いている。
裏社会のドンでさえ、ヒカルさんの匂いの前では、ただの一匹のメスに成り下がってしまうのだ。
「……信じられない。ただの匂いで、アタシの脳髄が焼かれそうになるなんて……」
マダムは荒い息を吐きながら、慌てて包みを元に戻し、深くソファーに沈み込んだ。その顔には、恐怖と、そして底知れぬ強欲な笑みが浮かんでいた。
「ラン。あんた、とんでもないブツを見つけてきたね。こんなものが獣人社会のエリートたちの間に回れば、ヤツらの理性は根底から壊れるよ」
「ええ。だからこそ、独占すれば言い値で売れます。……マダム、アタシと組みませんか? 商品の調達はアタシがやります。流通と管理は、マダムにお任せします」
アタシの提案に、マダム・バクは喉の奥でクックックと低く笑った。
「いいだろう。この『匂いつき備品』、闇市の最高級ルートに乗せてやる。発情期に苦しむ金持ちの令嬢どもから、骨の髄まで搾り取ってやろうじゃないか」
こうして、ヒカルさんの全く預かり知らぬところで、最悪の裏ビジネスが幕を開けた。
アタシはただ、目の前に積まれるであろう金貨の山に、キツネの尻尾を上機嫌に揺らしていたのだ。




