第10話 限界の兆候
季節は巡り、高校2年の秋。
涼しい風が吹き始める頃、俺の体には決定的な『破綻』の足音が近づいていた。
ある日の朝、洗面所の鏡の前に立った俺は、絶望的な気分で自分の顔を睨みつけていた。
「……また、濃くなってる……」
顎のラインに、うっすらと青い影。紛れもない『髭』の兆候だった。
フェイスシェーバーを手に取り、肌を傷つけないよう慎重に、かつ念入りに剃り落としていく。少しでも剃り残しがあれば、至近距離で見られた時に男だとバレてしまう。
さらに深刻なのは、喉の奥に居座る違和感だった。
「あー、あー……おはよう、ございます……っ、痛ぁっ」
いつものように女子生徒用の裏声を出そうとすると、喉仏の奥を焼かれるような鋭い痛みが走る。本格的な声変わりが始まっているのだ。無理に高い声を作らなければならない毎日は、喉への負担が限界を超えつつあった。
だが、何よりも俺の命を削っているのは、男のフェロモンを抑え込むための『中和剤』だった。
戸棚からいつもの錠剤を取り出し、水で強引に胃へと流し込む。
その瞬間だった。
「うっ……! オェッ……!!」
強烈な吐き気が込み上げ、俺はたまらず洗面台に両手をついた。視界がぐにゃりと歪み、冷や汗が全身から噴き出す。
長年の継続服用による副作用が、いよいよ無視できないレベルに達しているのだ。内臓が「これ以上は毒だ」と悲鳴を上げているのがわかる。
それでも、俺はこの薬を飲むのをやめるわけにはいかなかった。やめれば一瞬で男のフェロモンが拡散し、外を歩く獣人たちの『交尾相手』として狩られてしまうからだ。
フラフラする頭を必死に奮い立たせ、俺は今日も完璧な女子生徒の仮面を被って、国立桜華学園への通学路を歩き出した。
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2年A組の教室は、いつものように令嬢たちの優雅な談笑で賑わっていた。
俺は自分の席に座り、机の下でギュッと拳を握りしめていた。体調が最悪だった。薬の副作用による眩暈と熱っぽさで、呼吸がどうしても荒くなってしまう。
「……はぁっ……ふぅ……」
熱い息を吐き出した拍子に、喉の奥がイガイガと刺激された。
「ゴホッ、ゴホッ……っ!」
咳き込んだ瞬間、女子の裏声が剥がれ落ち、本来の『低い男の声』が微かに漏れてしまった。
周囲のざわめきにかき消されたはずだったが、俺は血の気が引くのを感じた。
運の悪いことに、ちょうど俺の席の横を、生徒会長のレティシアと、オオカミ系のシルヴィが通りかかっていたのだ。
大型犬系とオオカミ系。学園でもトップクラスに嗅覚の鋭い二人が、ピタリと足を止めた。
「……ん?」
シルヴィが、ツンと尖った鼻をヒクつかせた。
「なんだ……? 今、この辺りから、すごく……甘くて、頭がクラクラするようないい匂いがしなかったか?」
その言葉に、規則に厳格なはずのレティシアも、目をトロンと潤ませて同調した。
「ええ……。なんだか、無意識に尻尾を振りたくなってしまうような、強烈な……。どこから匂ってくるのかしら、これは……」
二人は吸い寄せられるように、フラフラと俺の席へ近づいてくる。
まずい。今日の中和剤は、副作用で吐き気がしたせいで、体が成分をうまく処理しきれていないんだ。フェロモンが漏れ出してしまっている。
冷や汗が滝のように流れ、心臓が早鐘を打つ。
このまま匂いの出所が俺だとバレれば、教室の中で理性を失った猛獣たちに押し倒されてしまう。
どう言い訳すればいい。香水をこぼした? 柔軟剤を変えた? 頭の中で必死に言い訳を回転させていた、その時だった。
「はにゃーっ! やっぱり二人もそう思う!?」
突然、隣の席から明るい声が響いた。
幼馴染の猫系獣人、ミオだった。
彼女は俺の隣にピタリと寄り添うと、自分のふさふさの猫耳を俺の肩にスリスリと擦りつけながら、レティシアたちに向けて無邪気に笑った。
「確かに最近、ヒカルってすっごくいい匂いするわよね! 私もずっと思ってたの!」
「ミ、ミオ……?」
ミオは、俺が男だなんて微塵も疑っていない。だからこそ、純粋な『女子同士のスキンシップ』として、俺の腕に両腕を絡ませて豊満な胸を押し付けてきた。
「ねえヒカル、絶対にいい香水とか、特別なシャンプー使ってるでしょ? 私にも教えてよ! ていうか、今日の放課後、また私にサロンでお手入れしてね! 私、ヒカルのこの甘い匂いに包まれながらマッサージされたいなぁ……!」
ミオが甘えた声でおねだりしながら、俺の首筋に自分の匂いを擦りつけるように顔を埋める。
その行動が、偶然にも最強のカモフラージュになった。
ミオの猫特有の匂いと、彼女が使っているシャンプーの匂いが混ざり合い、レティシアとシルヴィの鼻を惑わせたのだ。
「む……なんだ、フェリデの匂いも混ざって、よくわからなくなってしまったな」
「そうね……。でも、確かに神浦さんのサロンのシャンプーは、麻薬的な魅力があるわ。私も今度、予約を入れさせてもらうわよ」
シルヴィとレティシアは、熱っぽい深呼吸を何度か繰り返した後、後ろ髪を引かれるように自分たちの席へと戻っていった。
「ふぅ、助かった……」
俺は心の中で安堵の溜息をついた。
だが、腕に絡みついているミオの体温が、今日はやけに熱く感じられる。
「ね、ヒカル。今日の放課後、絶対だからね? 私、もうヒカルに触ってもらわないと、ダメになっちゃいそう……」
上目遣いで見つめてくるミオの瞳の奥に、いつもとは違う、トロンとした色香が宿っていることに、俺はまだ気づく余裕がなかった。
副作用で鉛のように重い体を引きずりながら、俺はなんとかその日の放課後を迎えるのだった。




