第7話 人間の協力者
嵐のようなダブルトリミングを終え、ルナとメリーがホクホク顔で帰っていった後の第4温室跡。
俺は一人、作業台の上に並べた道具たちを見つめ、深い溜息をついた。
「やっぱり、今のままじゃダメだ……」
二人の仕上がりは決して悪くなかった。ルナのウサギ特有の細く繊細な毛も、メリーの頑固で分厚い羊の毛玉も、なんとか綺麗に整えることができた。だが、それはあくまで俺のゴッドハンドによる技術で無理やりカバーした結果に過ぎない。現状の道具に限界を感じ始めるのは当然だった。
前世の世界なら、犬種や猫種、毛質に合わせて何十種類もの専用ブラシやハサミが存在した。しかし、魔法こそないものの前世の文明レベルのこの世界において、なぜかトリミングに特化した良質なスリッカーブラシや低刺激シャンプーが存在しないのだ。獣人たちは自分の毛並みにコンプレックスを抱きながらも、人間用の市販品を無理やり使って誤魔化している。
このままでは、いつか彼女たちの肌を傷つけてしまうかもしれない。
俺の理想のサロンを作るためには、妥協はできない。特注の道具を作る決意を固めるしかないようだな。
設計図は頭の中にある。あとは、それを形にしてくれる優秀な鍛冶職人か細工師を見つけるだけだ。俺は決意を胸に、秘密のサロンを後にした。
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翌日の放課後。
俺が教室に一人残り、特注ブラシの図面をノートにこっそりスケッチしていると、不意に背後から冷たい声が降ってきた。
「随分と熱心ね、神浦さん」
ビクッと肩を震わせて振り返ると、そこには黒髪を綺麗に切り揃えた人間の女子生徒、一条葵が立っていた。
彼女は獣人のように発情期を持たないため、常に冷静沈着なクラスメイトだ。国家の重要機関に勤める官僚の娘であり、この世界の非人道的な管理体制も熟知している。
「い、一条さん。どうしたの、こんな時間まで」
俺は慌ててノートを隠し、裏声で微笑んだ。しかし、葵は眼鏡の奥の鋭い瞳で俺を射抜いた。
「とぼけなくていいわ。ミオやレオナ、それに昨日のルナやメリーの劇的な変化。彼女たちの毛並みから微かに漂う、あなたがいつも使っているシャンプーと同じ匂い。……あなたが旧校舎の温室で、秘密裏に『何か』をしているのは明白よ」
心臓が嫌な音を立てた。まさか、獣人の嗅覚ではなく、人間の圧倒的な観察眼と論理で追い詰められるとは。
「わ、私……別に悪いことなんて……」
「安心して。あなたが秘密裏にサロンを開いていることは黙っておくわ」
葵は淡々とした口調で、予想外の提案を口にした。
「前からあなたは何か大きな隠し事をしていると思っていたけれど、サロンのことだったのね。私の髪の手入れもできて?」
彼女は、俺が本当は男だという秘密をうまく勘違いしてくれた。人間の一条葵のヘッドスパとヘアカットの要求を受ける形で、俺は彼女を温室へと案内することになった。
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「人間の私には、獣人のような毛並みはないわ。それでもあなたに手入れができるの?」
温室の椅子に座り、葵は挑発するように言った。
「人間の髪だって、手入れ次第で劇的に変わるわ。目を閉じていて」
俺は静かに彼女の背後に立ち、背もたれを倒してシャワーでお湯を当てた。
獣人を狂わせるフェロモンの心配はない。だからこそ、俺は純粋な美容師としての技術を100パーセント解放した。
「……っ」
特製のオイルを使ったヘッドスパを開始した瞬間、葵の肩が小さく跳ねた。
人間の頭皮にも、無数のツボが点在している。日頃から官僚の娘としてプレッシャーに晒され、論理と計算で張り詰めている彼女の頭脳。その凝り固まった頭皮の筋膜を、俺のゴッドハンドが的確な圧でゆっくりと剥がし、ほぐしていく。
「あ……くぅ……」
常に無表情だった葵の口から、微かな吐息が漏れた。
獣人のような発情の快感ではない。純粋な『癒やし』による圧倒的な脱力感だ。冷徹な仮面が溶け落ち、彼女は椅子に深く寄りかかって完全に身を委ねていた。
シャンプーを終え、髪を乾かし、手早くハサミを入れる。
毛先を数ミリ単位で見極め、彼女の理知的な雰囲気を引き立てるように前下がりのボブへと調整していく。ハサミが空を切るたび、葵は心地よさそうに目を細めていた。
「終わったわよ、一条さん」
前掛けをはぎ、姿見の前に立った葵は、鏡の中の自分を見て言葉を失っていた。
そこには、ただ黒かっただけの髪が、まるで水面のように艶やかな光の輪を宿し、指通りなめらかな極上のシルクへと変貌を遂げた姿があった。頭の芯までクリアになったような爽快感が、彼女の表情を柔らかく輝かせている。
「……信じられない。ただの洗髪と散髪で、ここまで……っ」
葵は震える手で自分の髪に触れた。その瞳には、冷静な観察者としての冷たさは消え、純粋な感動の涙が薄っすらと浮かんでいた。
「神浦さん……いえ、ヒカル。あなたの技術は、確かに本物よ。国はこの技術をもっと普及させるべきだわ」
彼女はくるりと振り返り、初めて俺に向けて柔らかな微笑みを見せた。
この瞬間、俺は学園で最も冷徹で、そして最も頼もしい『人間の協力者』を手に入れたのだ。彼女の存在が、後に俺の力になってくれるに違いない。そう確信しながら、彼女を見送った。




