第37話 プレオープン
長い間、俺の朝は吐き気と隣り合わせだった。人間の男としての強烈なフェロモンを抑え込むため、肝臓をすり減らす中和剤を無理やり飲み込むのが日課だったからだ。
だが、今の目覚めは違った。
胸を締め付けるブラジャーも、股間を隠す前張りも、もう必要ない。俺は、堂々と男子用の制服に身を包み、朝の新鮮な空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
非人道的なルールを実力で打ち破り、俺はついに自由の権利を確定させたのだ。
学園の裏手にある旧校舎、第4温室跡。
かつて俺が秘密裏にサロンを開いていたツタの絡まるその場所は、今や見違えるほど立派な施設へと変貌を遂げていた。
「本当に買っちまうとはな……」
俺は真新しいガラス張りの扉を見上げながら、呆れ半分に呟いた。
そう、ここはもう学園の敷地ではない。闇市の元締めであるマダム・バクや、スポンサーとなったエリート獣人の親たちの莫大な裏金と資金援助によって、この第4温室跡の土地そのものを学園から買い上げてしまったのだ。
正真正銘、俺の私有地であり、合法的に営業が許可された『公認トリミングサロン』である。
「ヒカル坊や、見とれている場合じゃないよ」
背後から紫色の煙とともに現れたのは、豪奢な毛皮をまとったマダム・バクだった。その後ろには、大きなダンボール箱を抱えたキツネ系獣人の狐塚ランが、ちゃっかりとキツネ耳を揺らして続いている。
「プレオープンの前に、アタシたちのビジネスの話を詰めておこうじゃないか」
マダムがニヤリと笑うと、ランが勢いよくダンボール箱を開けた。中には、大量の真っ白な靴下と男性用の下着がぎっしりと詰まっていた。
「ヒカルさん! サロンの合法化、おめでとうございます! そこで提案なんですけど、これからはヒカルさんの写真付きフェロモンブロマイドの販売はもちろん、この『使用済み下着・靴下回収サブスクリプション』を大々的に展開しようと思いまして!」
ランが目を輝かせながら、恐ろしいビジネスモデルを語り始めた。
「毎日、アタシたちが新品の靴下と下着をヒカルさんに提供します! ヒカルさんはそれを一日履いて、洗わずにそのままアタシたちに渡すだけ! それを真空パックにして富裕層の令嬢たちに高値で売り捌くんです! 原価ゼロで利益率無限大の錬金術ですよ!」
「……お前ら、本物の悪魔か?」
俺は血の気が引くのを感じた。
「冗談じゃない。俺の脱ぎたての下着が学園の裏で取引されるなんて、想像しただけでぞっとする。絶対に却下だ」
「ええーっ、もったいない! マダム、ヒカルさんがこう言ってますけど」
「まあ焦るなラン。坊やがいずれ首を縦に振るよう、需要は極限まで高めておくさ」
マダムは長いキセルを吹かしながら、クックックと腹の底で笑っている。この強欲な商人たちを味方につけたのは心強いが、油断すれば俺の尊厳まで商品にされかねない。
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気を取り直し、俺はサロンの扉に手をかけた。
「さて、それじゃあ……プレオープンの時間だ」
『OPEN』の札を裏返した瞬間だった。
ドドドドドドッ!!
地鳴りのような足音が旧校舎に響き渡り、視界の先から猛烈な土煙が上がった。
「ヒカルゥゥッ!!」
「ヒカルさぁぁんっ!!」
先頭を切って猛ダッシュしてきたのは、ライオン系のレオナと、オオカミ系のシルヴィだった。その後ろから、猫系のミオや、元生徒会長の大型犬系・レティシアが凄まじい勢いで追いかけてくる。
合法的にお触り……いや、施術が許可されたことで、これまでの張り詰めた空気が一転、彼女たちの欲望が完全に爆発していた。
「どきなさい泥棒狼! 栄えある公認サロンの第一号は、キングスレイ家の次期当主であるこの私がふさわしいわ!」
「ふざけるな! 私の発情期の熱を抑えられるのはヒカルだけだ! 私が一番だァッ!」
「ちょっと二人とも! 幼馴染の私が一番に決まってるでしょ! ヒカルの中身を一番愛してるのは私なんだから!」
「ワンッ! ハウンド家の名において、私が真っ先に施設の安全点検と……ヒカル様の匂いのチェックを行います!」
ドガァァンッ!と扉が押し開けられ、エリートヒロインたちがサロン内になだれ込んできた。
「おい、お前ら落ち着け! 順番に……」
俺の制止も虚しく、理性を飛ばした獣人たちは俺の言葉など全く聞いていなかった。
彼女たちは真新しい施術台や待合室のソファ、さらには俺の制服にまで、自分の頬や体を擦り付け始めたのだ。
「すぅぅっ……はぁぁっ……ここ、ヒカルさんの匂いがする……っ。アタシの匂いで、上書きしてやるわ!」
レオナがソファに体を擦り付けながら、恍惚とした表情でマーキングを始める。
「渡さん……ヒカルの匂いは、ルプス家のものだ!」
シルヴィも負けじと、俺が使っている特注のブラシに自分の匂いを擦り付けている。
「ヒカル! 私、ヒカルの服にいっぱい匂いつけるね! すりすり……っ」
ミオに至っては、俺の胸に飛び込んできて、豊満な胸と猫耳を直接俺の首筋に擦り付けてきた。強烈な猫の体臭と、俺の完全なオスのフェロモンが混ざり合い、サロン内は一瞬にしてむせ返るような甘い匂いで満たされた。
「ハァッ……ハァッ……ご主人様、私も、私もマーキングを……っ!」
レティシアが四つん這いで俺の足にすがりつき、尻尾をブンブンと振りながらよだれを垂らしている。
誰がヒカルの最初の客になるか。その権利を巡り、サロン内は熟れた獣たちの熾烈なマーキング争奪戦へと発展していた。
「こら、備品に匂いをこすりつけるな! ラン、そこのタオルをこっそり袋に詰めるのをやめろ!」
俺は、エロティックでドタバタな甘い狂騒の中心で、頭を抱えながら叫んだ。
これまでの命懸けの法廷闘争が嘘のような、平和で、しかし最高に厄介な日常が、ついに幕を開けたのだ。




