第35話 宣戦布告
国立桜華学園の学園長室は、重苦しい沈黙と焦燥感に包まれていた。
「……インフラの稼働率が、ついに危険水域を割りました。このままでは国家の物流と治安維持機能が完全に停止します!」
報告書を握りしめる人間の官僚たちの声は、恐怖に震えている。キングスレイ家やルプス家をはじめとする獣人のトップ層からの猛烈なストライキと経済的圧力が、国を根底から揺るがしているのだ。人間の女たちが構築した冷徹な管理システムは、たった一人の人間のオスの技術とフェロモンを前に、完全に麻痺しつつあった。
「たかが人間の男一人に、国家のルールを捻じ曲げられるわけにはいかないわ。軍とエージェントを動員してでも、今すぐ強制収容する準備を進めなさい!」
保守派の官僚が叫ぶ中、同席していた国立生殖医療センターの主任研究員・桜井菜月は、手元のタブレットに目を落としたまま無言だった。彼女の画面には、一条葵から匿名で送られてきたヒカルの臨床データが映し出されている。
「交感神経の異常な興奮を瞬時に鎮める、この圧倒的なホルモン値の正常化……。たかがマッサージで、これほどの効果を叩き出すなんて」
男性を国家の貴重な資源としか見ていなかった冷徹な科学者の彼女でさえ、未知の科学的発見を前に息を呑んだ。国家のルールに従うべきか、それともこの奇跡の技術を保護すべきか、彼女の中で激しい葛藤が生まれていた。
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【神浦ヒカル視点】
同じ頃、旧校舎の第4温室跡。
重厚な扉を開けて中に入ってきたのは、俺の母であり政府機関の官僚である神浦志保と、見知らぬスーツ姿の女性だった。
「ヒカル。いよいよ『プランB』を最終フェーズに移行するわよ」
志保は冷徹な声で告げ、隣の女性を紹介した。
「彼女は市川舞。法曹界の異端児と呼ばれる、人権派の弁護士よ」
「初めまして、神浦ヒカル君。あなたの噂はかねがね……って、ちょっと待って」
市川弁護士は挨拶の途中で言葉を切り、突然胸元を押さえてしゃがみ込んだ。
「な、なによこの暴力的なまでの甘い匂い……っ!頭の奥が、じんじん痺れて……っ」
人間の女であり、発情期を持たないはずの彼女でさえ、中和剤を絶った俺の『完全なオスのフェロモン』を至近距離で浴びて、顔を真っ赤に染めている。
「……大丈夫ですか、先生」
「はぁっ、はぁっ……平気よ。でも、これなら確信できるわ。あなたは国を動かす『劇薬』ね……っ」
市川弁護士はフラフラと立ち上がりながらも、その瞳には好戦的な光を宿し、荒い息を吐きながら不敵に笑った。
俺たちは、一条葵が収集したシルヴィの『発情期鎮静化』とウルサの『労働効率向上』の完璧なデータをテーブルに広げた。
「この客観的データと、現在の獣人名家からの強烈な要求を組み合わせるのよ」
市川弁護士は自信に満ちた声で語る。
「ヒカル君をただの遺伝子供給奴隷として隔離・消費するよりも、専門家のトリマーとして社会に置き、治安維持と労働力向上に貢献させる方が、圧倒的に国益になる。その完璧な法的根拠と新制度の草案を、国に突きつけるわ」
さらに、俺たちの見えないところでも強力な援護射撃が始まっていた。
闇市を取り仕切るマダム・バクだ。彼女は裏社会のネットワークを駆使し、政府高官たちの弱み――非合法なフェロモン備品の購入履歴や横領の証拠などをネタに、「ヒカルの特例を認める法案に賛成票を投じろ」と強烈な脅迫を行っていた。表の法廷準備と、裏社会からの圧力。両面からの完璧な包囲網が完成しつつある。
作戦会議が終わり、志保たちが出て行った後、俺は部屋の隅で待機していたセリアを呼んだ。
「セリア、お前に頼みがある。生殖医療センターにいるジン・ドーベルに、これと伝言を届けてくれ」
俺はマダム・バクから調達した極上栄養剤の束を差し出した。
「伝言の内容は?」
「『もうすぐ終わる。あと少しだけ耐えろ』だ」
俺の自由を勝ち取るだけでなく、この非人道的な搾取システムに苦しむ全ての獣人の男たちの環境を変える。その決意を胸に、俺はセリアを送り出した。
数日後。
志保と市川弁護士は、学園長である御堂冴子を通じて、政府上層部へと直接新制度の草案とデータを突きつけた。
「この草案を呑み、神浦ヒカルの身体的自己決定権を認めなさい。さもなくば、獣人名家のストライキは継続し、この国は完全に崩壊するわよ」
冷徹な官僚と異端の弁護士による、国家への宣戦布告。
データと圧力の前に完全に逃げ道を塞がれた政府上層部は、ついに苦渋の決断を下した。ヒカルを実力行使で強制収容する強硬手段を諦め、国会特別委員会に証人喚問として呼び出し、直接審議にかけることを決定したのだ。
卒業式を目前に控え、俺の運命を決める最後の戦いの舞台が、ついに国会議事堂へと移ろうとしていた。




