第13話 カミングアウト
洗面所の鏡の前に立つ俺は、見慣れない自分の姿を静かに見つめていた。
肩まであった長い髪は、昨夜のうちに自分でバッサリと切り落とした。胸を大きく見せるためのパッド入りブラジャーも、股間を隠すための前張りも、もうゴミ箱の中だ。
代わりに身につけているのは、母さんたちが用意してくれていた、国立桜華学園カラーのスラックスと、サイズの合った真っ白なカッターシャツだった。
「面白くなってきたじゃねえか……いくか」
女言葉も裏声もやめた。自分の低い声が、風呂場に響く。俺は今日、この狂った世界に対して、自分から飛び込んでいくのだ。
学園の正門をくぐると、朝の平和な空気は一瞬にして凍りついた。
すれ違う女子生徒たちが、一様に歩みを止め、目を丸くしてこちらを見つめてくる。
「え……? あ、あの人、誰……?」
「桜華学園に、男装の人……? どうして……」
「待って、あの顔……まさか、神浦さん……!?」
草食獣人の生徒たちがビクビクと後ずさり、肉食獣人の令嬢たちが信じられないものを見るように息を呑む。周囲のざわめきが波のように広がっていくのを感じながら、俺は誰とも目を合わせず、真っ直ぐに学園の最上階、学園長室へと歩みを進めた。
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コンコン、と重厚な木の扉を叩く。
「入りなさい」という凛とした声を聞き、俺はドアノブを回した。
執務机の奥で書類に目を通していた学園長、御堂冴子が、顔を上げる。人間の政治家から出向してきた、エリート中のエリートである彼女は、俺の姿を見るなり持っていた承認印をカタンと落とした。
「あなた……神浦ヒカル、さん? その格好は、一体何の冗談かしら」
「冗談ではありません。学園長、今まで偽っていて申し訳ありませんでした」
俺は深く一礼し、顔を上げてはっきりと告げた。
「俺は、男です」
数秒の沈黙。冴子の冷徹な瞳が、激しく揺れ動いた。
「……自分が、何を言っているのか分かっているの?」
「ええ。俺が『完全な人間の男』であることを申告しに来ました」
「馬鹿な……っ! 入学前の身体検査も、毎月の健康診断も全て……どうやってすり抜けてきたの!」
冴子はバンッと机を叩いて立ち上がった。その顔には、国家のルールを根底から覆されたことへの怒りと、底知れぬ動揺が入り混じっていた。
「母親が産婦人科医でしたから。書類もデータも、全て改ざんしていました。ですが、もう隠しきれないと判断したんです」
冴子はギリッと奥歯を噛み締め、すぐに机の上の黒い受話器を手に取った。
「……緊急回線。ええ、私よ。桜華学園で『未登録のオス』が確認されたわ。至急、国家エージェントの部隊を回してちょうだい。……ええ、最優先事項よ」
冷酷に手配を済ませた冴子は、受話器を置き、俺を鋭く睨みつけた。
「今まで黙っていたことは、国家への重大な反逆行為よ。特例は認められない。あなたの平和な日常は、今日で終わり。きっちり管理させてもらうわ」
「……どうですかね。俺は、そう簡単に飼い慣らされるつもりはありませんよ」
俺が不敵に笑い返した、その瞬間だった。
ドクンッ!!
「……っ!」
俺の心臓が、肋骨を突き破りそうなほど激しく跳ねた。
視界がぐにゃりと歪み、全身の毛穴という毛穴から、凄まじい熱が噴き出すのを感じた。
(……まずい。昨日最後に飲んだ中和剤の効果が……完全に、切れた……!)
俺の意志とは無関係に、抑え込まれていた極上のオスのフェロモンが、密室の学園長室の中で爆発的に拡散した。むせ返るような、暴力的で、甘すぎる匂いが空間を埋め尽くす。
「なっ……なによ、これ……っ」
冴子の顔が、一瞬にして朱色に染まった。
人間の女である彼女は、獣人のような発情期を持たない。常に冷静な判断ができるはずの彼女でさえ、ゼロ距離で放たれた完全なオスの匂いに、理性を激しく揺さぶられていた。
「はぁっ……はぁっ……頭が、熱い……っ。体が、痺れて……っ」
冴子は机に手をつき、ガクガクと震える膝を必死に支えていた。キツく結ばれていた唇からは、だらしない甘い吐息が漏れ出している。
この密室から漏れ出したフェロモンは、換気口を通り、窓の隙間を抜け、学園全体へと急速に広がっていった。
これが引き金だ。ここから、学園は狂乱の狩場へと変貌する。
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【一条葵の視点】
2年A組の教室は、不気味な静寂に包まれていた。
神浦ヒカルが、短い髪と男装の制服姿で登校してきたという噂は、すでに教室中の令嬢たちの耳に入っていた。皆が動揺し、信じられないと囁き合っている。
私は窓際の席で、眼鏡のブリッジを押し上げながら、静かに息を吐いた。
(……ついに、カミングアウトしたのね。ヒカル)
私は彼女……いや、彼が秘密裏にサロンを開いていることも、おそらく性別を偽っていることも薄々感づいていた。
その時だった。
開け放たれた窓から、生ぬるい風と共に『それ』が流れ込んできた。
「……っ」
人間の私でさえ、鼻腔を突いたその匂いに、下腹部がキュンと熱くなるのを感じた。脳髄を直接撫で回されるような、暴力的なまでに甘い匂い。これが、ヒカルが薬で抑え込んでいた『完全なオスのフェロモン』。
「……来たわね。爆弾が、弾けたわ」
私が冷静に呟いたのと同時だった。
「あ……ぁ……っ」
教室の前方で、大型犬系の生徒会長・レティシアが、手から書類を落として立ち尽くしていた。その瞳孔は限界まで見開き、目は血走り、犬の耳がピクピクと狂ったように痙攣している。
隣の席では、ライオン系のレオナが、机をガタンと蹴り倒して立ち上がった。
「なんだ、この匂い……っ! アタシの、アタシの奥まで、入ってくるぅッ!!」
高飛車な令嬢の面影はどこにもない。そこにあるのは、極上の獲物を前にして理性を完全に吹き飛ばした、ただの飢えた猛獣の姿だった。
「どけ、レオナ! 近くにオスがいる。そのオスがは、私のものだァッ!」
軍事の名門、オオカミ系のシルヴィが凄まじい咆哮を上げ、レオナに向かって牙を剥き出しにして飛びかかった。
「邪魔するな泥棒獣! アタシが、アタシが犯してやるんだよォッ!」
ドゴォォンッ! という轟音とともに、学園のトップに君臨する二匹の猛獣が、ヒカルを巡って取っ組み合いを始めた。
教室中から、悲鳴と、野獣の唸り声と、発情の喘ぎ声が入り混じった地獄のような狂乱が巻き起こる。
私は冷や汗を拭いながら、手元のノートパソコンを開いた。
(獣人たちはもう理性を失って全滅ね。さあヒカル、このピンチをどう生き延びるつもり?)
私は親友の生存確率を冷徹に計算しながら、学園の監視カメラのチェックを開始した。




