第14話 狂乱の学園
【神浦ヒカル視点】
遠くから聞こえた叫び声が気になり、学園長室から飛び出した俺は、廊下に立ち込める異様な空気に息を呑んだ。
先ほどまでのエリート学園の静寂は完全に消え失せ、校舎のあちこちから野獣の咆哮と、甘ったるい喘ぎ声が響き渡っている。
「ハァッ……ハァッ……どこ……極上のオスはどこなの……っ!」
階段の下から、目を血走らせたクマ系の体育教師が四つん這いで這い上がってくるのが見えた。普段は温厚で生徒想いの彼女の口からは大量の涎が垂れ、鋭い爪がリノリウムの床をガリガリと削り取っている。
「見ィつけたァッ! 私のモノだァァッ!!」
俺と目が合った瞬間、彼女は凄まじい脚力で跳躍した。
「うおっ!?」
間一髪で身を躱すと、クマ系の教師は壁に激突し、それでもなお狂乱状態でもがきながら俺に手を伸ばしてくる。俺は全速力で廊下を駆け出した。
振り返る余裕などない。窓の外を見下ろせば、中庭でも異常な事態が起きていた。ウサギ系やヒツジ系の草食獣人たちまでもが理性を完全に吹き飛ばし、肉食獣人にすら牙を剥いて暴れ回っている。
「どけ! あいつの種は私がもらうんだ!」
「ふざけるな、私が先だ!」
獣人同士が血みどろの取っ組み合いを始め、フェロモンの影響で学園のヒエラルキーすらも完全に崩壊していた。まさに、サバイバルホラーの様相を呈している。
俺というたった一人の「交尾相手」を求めて、半径数キロに及ぶ獣人たちが一斉に理性を失った狩場。少しでも立ち止まれば、あっという間に群がられ、骨の髄まで貪り尽くされるだろう。
俺はどこかに隠れてもニオイで勘づかれてしまうこの状況の中、ただ走り回って逃げるしかなかった。
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「ハァ……ハァ……っ」
非常階段を駆け下り、旧校舎へと向かう渡り廊下に差し掛かった時だった。
「ヒカル先輩……待ってぇ……」
前方を塞ぐように現れたのは、ルナとメリーの二人だった。普段は肉食獣人に怯えてばかりの草食獣人の二人が、今は涎を垂らし、虚ろな目で俺ににじり寄ってくる。
「私たち、ヒカル先輩の種が欲しいの……っ」
「いっしょに、いっしょに気持ちよくなろ……?」
背後からは、他の獣人たちの足音と怒号が迫っている。絶体絶命の挟み撃ちだ。
「くそっ……ここまでか……!」
俺が後ずさりした、その瞬間だった。
「シャーァァァァッ!!!」
鼓膜を劈くような、猫科特有の激しい威嚇音が廊下に響き渡った。
頭上から飛び降りてきた影が、ルナとメリーの前に立ち塞がる。
「ミ、ミオ……!?」
そこにいたのは、親友のミオだった。だが、いつもの心優しい彼女ではない。全身の毛を逆立て、瞳孔は細く針のように収縮し、口元からは鋭い牙が覗いている。
「ヒカルは……私のモノよォッ!! 泥棒獣ども、近づくんじゃないわよォッ!!」
ミオはルナとメリーに向かって爪を振り上げ、本気の殺意を込めて威嚇した。草食獣人である二人は、本能的な恐怖とミオの狂気に慄き、悲鳴を上げて逃げ出していった。
「ミオ、助かった……」
俺が安堵の息を吐いて近づこうとした時、ミオがぐるりと首を回して俺を睨みつけた。
「あ……ぁ……ヒカルぅ……っ」
その瞳には、親友を見る理性など微塵も残っていなかった。あるのは、純粋な『飢え』と、異常なまでの『独占欲』だけ。
ドンッ!
「ぐっ!?」
ミオは凄まじい力で俺を床に押し倒し、馬乗りになった。
「ミオ!? おい、正気に戻れ!」
「正気よ……私は、ずっとこの時を待ってたの……」
ミオは恍惚とした表情で、俺の首筋に顔を執拗に擦り付けてきた。
「ああ……私の匂い……。昨日の放課後、ヒカルにべったり付けた私の匂いと……ヒカルの強烈なオスの匂いが混ざって……最高にいい匂い……」
そうか、昨日俺が倒れた時、ミオは俺が男だと気づいていたんだな。そして他の獣人を遠ざけるために自分の匂いをマーキングしたのか。
だが、その防壁すらも、俺の体内から溢れ出す圧倒的なフェロモン爆発の前には無力だった。むしろ、ミオ自身が真っ先に匂いを嗅ぎつける道標となり、発情を極限まで加速させる触媒になってしまっている。
「他のメスになんて、指一本触れさせない。ヒカルの全部、私がニャの一番に……頂くわ……っ」
ミオの熱い舌が、俺の首筋を這う。
ズキリと、牙が肌に食い込む感覚。
「やめろ、ミオ! こんなことしたら、お前も……!」
俺の抵抗も虚しく、ミオの力は非力な人間の俺では到底敵わないほどに強大だった。シャツのボタンが引きちぎられ、胸元が露わにされる。
廊下の奥からは、シルヴィとレオナが血みどろで争う激しい咆哮、そして無数の獣人たちの足音が地鳴りのように近づいてきている。
目の前には、狂気と愛欲に完全に呑まれた親友が、俺を自分のモノにしようと貪り食う寸前だ。ミオも例外なく俺に襲いかかり、事態は最悪の局面を迎えていた。
逃げ場のない狂乱の嵐の中で、俺の意識は絶望の淵へと沈みかけていた。
俺のたった一つの武器である『ゴッドハンド』すら、理性を完全に喪失した本能の前では全く無意味だ。
(誰か……!)
フェロモン爆発により学園がパニックに陥り、俺は絶体絶命の危機に瀕した。




