第12話 反逆の決意
泥のような眠りから覚めると、俺は自分の部屋のベッドの上にいた。
全身の関節が軋み、頭の奥でガンガンと鈍い痛みが響いている。ゆっくりと体を起こし、自分の服を見下ろして、ハッと息を呑んだ。
「……なんだ、この匂い……」
俺の制服に、むせ返るような強烈な『匂い』が染み付いていたのだ。
それは、ミオがいつも放っている猫系獣人特有の体臭と、俺が彼女に調合したシャンプーの香り。それが異常なほどの濃度で、俺の首筋から胸元、衣服の繊維の奥深くにまでべったりと擦り付けられている。
まるで、他の獣人を威嚇し、遠ざけるための防壁のように。
「……昨日の放課後……」
霞がかった記憶を辿る。秘密のサロンでミオのトリミングをしていた時、副作用の限界で倒れ込んだ。そこから先の記憶がない。おそらく、ミオが機転を利かせて家まで送り届けてくれたのだろう。
だが、この尋常ではない匂いの付け方はなんだ。まさか、俺が男であることに……あの時漏れ出したフェロモンに、気づかれたのか?
冷や汗が背中を伝う。もしミオが他の獣人に言いふらせば、俺の学園生活は今日で終わる。
ガチャリ、と部屋のドアが開いた。
「……ヒカル、目が覚めたのね」
入ってきたのは、産婦人科医である母・恵だった。普段は俺を溺愛し、笑顔を絶やさない彼女の顔は、今日ばかりは青ざめていた。手には、俺の血液検査のデータが握られている。
「母さん……俺……」
「ヒカル、よく聞きなさい」
母はベッドの端に座り、震える手で俺の手を握った。その瞳には、すでに大粒の涙が浮かんでいる。
「中和剤の副作用で、あなたの肝臓と腎臓の数値が……限界を超えているわ。これ以上服用を続ければ、男として生きる前に命を落とす。……もう、限界なのよ」
その言葉は、死刑宣告にも等しかった。
命を守るためには薬をやめなければならない。だが、薬をやめれば極上のフェロモンが拡散し、俺は『人間の男』として国家に狩られる。
どう足掻いても、俺の『普通の日常』はここで終わるのだ。
+++
数十分後。
俺はふらつく足でリビングへと向かった。
そこには、恵ともう一人、俺の生物学的な母親であり、政府機関の事務職(官僚)を務める志保がソファーに腰を下ろしていた。彼女は腕を組み、冷徹な目で俺を見つめている。
「体調はどう?」
「最悪だけど……頭ははっきりしてる」
俺は二人の母親の向かいに座り、深く息を吸い込んだ。
「母さんたち。俺は、中和剤を飲むのをやめる。そして……学園で、男であることをカミングアウトする」
その言葉を聞いた瞬間、恵は両手で顔を覆い、ワァッと泣き崩れた。
「あぁ……っ、ごめんなさい……! 私が弱かったから……っ! 私がもっと上手く隠せていれば、あなたが国家の残虐な制度に飲み込まれたりしなかったのに……っ!」
息子が非人道的に搾取される未来を想像し、彼女の肩は激しく震えている。
俺は立ち上がり、泣きじゃくる恵の背中を優しく抱きしめた。
「謝らないでよ、母さん。17年間も、俺を女として育てて、この狂った世界から守ってくれたじゃないか。感謝してる。だから、ここからは俺自身の戦いなんだ」
俺が力強く告げると、向かいに座っていた志保が、ふう、と静かに息を吐いた。
「……泣いている暇はないわよ、恵」
志保の声は、氷のように冷たく、しかし揺るぎない覚悟に満ちていた。
「ヒカルが男だと公表されれば、特別指定男性保護法に基づき、即座に国家のエージェントが保護という名の拘束にやってくる。自由は完全に奪われるわ。……でも、私たちはただ黙って息子を差し出すつもりはない」
志保は懐からスマートフォンを取り出した。そして、俺たちの目の前で、匿名性の高い通話アプリを立ち上げ、どこかへと発信した。
数回のコールの後、相手が電話に出る。
「……ええ、私よ。……ついに『その時』が来たわ」
志保の鋭い視線が、俺を射抜いた。
「恵と二人で進めていた、プランBの準備をお願い。……ええ、そうよ。うちの息子を、ただの遺伝子供給奴隷にさせるつもりはないわ。国家のシステムに、風穴を開けるわよ」
短いやり取りで通話を切った志保に、俺は驚いて目を瞬かせた。
「志保母さん……今のは?」
「私たちが、ずっと水面下で準備していた防衛線よ」
泣き止んだ恵が、充血した目で俺を見上げ、力強く頷いた。
「私たちはね、いつかあなたが男として生きる日が来ることを、ずっと覚悟していたの。だから、志保の官僚としてのコネクションと、私の医療データを駆使して、人権派の弁護士と繋がっていたのよ」
俺は息を呑んだ。
この二人の母親は、ただ俺を隠して怯えていたわけじゃなかった。冷徹な人間社会のルールを熟知した上で、俺が国から少しでもマシな扱いを受けられるよう、法的な戦いの準備を淡々と進めてくれていたのだ。
「ヒカル。あなたはこれから国宝として扱われる反面、凄まじい制約と監視を受けることになる。でも、希望はある。私たちが法廷での戦いを準備するから、国家に収容される高校卒業までの間にあなたは学園で、あなたにしかできない方法で『武器』を集めなさい」
志保の言葉に、俺は自分の手が自然と拳を握りしめていることに気づいた。
俺の武器。
それは、前世から持ち越したトリマーとしての『技術』と、獣人たちを狂わせる極上の『フェロモン』だ。
このふたつを駆使して、学園のトップに君臨するエリート獣人たちを骨抜きにし、裏から支配する。彼女たちの親が持つ強大な政治力と経済力を、俺の自由のために利用するのだ。
「……わかった。俺も、戦う覚悟はできてるよ」
俺は、二人の母親に向けてはっきりと頷いた。
非人道的なルールに縛られ、遺伝子供給奴隷として一生を終えるつもりはない。前世日本の倫理観を持つ俺が、この歪な世界に下剋上を起こしてやる。家族の絆と決意が、このリビングで確かに結ばれた瞬間だった。




