第4章 選んだあとの距離 第5話 使わない奇跡 4/6
町に入った瞬間から、ジェンメリアは落ち着かなかった。
あまりにも静かすぎる。
叫びも、混乱も、助けを求める声もない。なのに、見えているものがある。
歪んだ足取り。
抑えきれない咳。
包帯の下で、確実に悪化している怪我。
視界に入るたび、胸の奥がざわついた。
「これを放っておけってこと?」
誰に向けたわけでもない独り言が、喉からこぼれ落ちた。
奇跡が使えない。それ自体は理解している。
規則も、決定書の内容も、頭ではわかっている。
だが、使わないことを求められている状況には、どうしても納得できずにいた。
町外れを巡回中、そんな彼女を迎え撃つかのように、事故が起きた。
そこは街の中でも活気に溢れ、多くの作業員が瓦礫工事を行っていた場所だった。
積み上げられていた石材や木材が、不意に崩れる。
鈍い音とともに土埃が舞い上がり、怒号が飛び交った。
倒れた作業者のもとに人が集まりかけたとき、ジェンメリアは反射的に足を踏み出していた。
「どいて」
短い言葉と強い視線に、住民が一瞬たじろぐ。
その隙を縫うように、彼女は倒れた男のそばに膝をついた。
包帯を外す。
傷の状態を確かめる。
腫れと熱、滲む血の色。
その判断は早い。
だが。
その距離が、近すぎた。
「触るな」
低い声が、横から飛んだ。
純白の法衣を着た神官だった。
穏やかな顔立ちをしているが、声に一切の曖昧さはない。
静かだが、拒絶は明確だった。
「その方は、我々の管轄です」
ジェンメリアは顔を上げ、神官をまっすぐに見返した。
「悪化してるわ。
今、処置しないと──!」
「必要ない」
言い切りだった。
その瞬間、ジェンメリアの眉がわずかに動く。
周囲のざわめきが、すっと遠のいたように感じられた。
「……それは、あなたの信仰でしょ」
抑えた声だったが、感情は隠れていない。
空気が、ぴんと張り詰める。
その様子に住民の視線が集まった。
警戒。
不信。
値踏みするような目。
奇跡は使っていない。
だが。
“聖女候補らしい踏み込み”そのものが、拒否されていた。
ジェンメリアに一歩近づき、神官の声がわずかに低くなる。
「下がりなさい。
この町では、善意もまた、争いの種になる」
ジェンメリアは言い返しかけた。
(助けられるのに、やらない理由なんて!)
喉元まで込み上げた言葉を、吐き出そうとした、そのとき。
背後から、静かな圧がかかった。
「ジェンメリア」
ラファエルの声だった。
短く、低い。感情を一切乗せない声音。
「私たちは使いません」
その言葉は町へ向けた宣言であり、
同時に候補生たちへの境界線でもあった。
奇跡を持ちながら、使わない。
それが、この地で課された最初の判断
町に向けた言葉であり
同時に候補生たちに引かれた
越えてはならない一線──。
それだけで十分だった。
ラファエルに気づくとジェンメリアは歯を噛みしめ、視線を神官から外す。
そして、ゆっくりと一歩下がった。
だが、その目はまだ、倒れた男を捉えている。
処置は町の治療師に引き継がれた。
動きは遅い。
手順も。慎重すぎるほど慎重だった。
確認に次ぐ確認。
そして治癒師の祈りの言葉。
消毒と儀式が優先されている。
ジェンメリアは拳を握ったまま、それを見ていた。
爪が掌に食い込む。
彼女は奇跡を使っていない。
規則も破っていない。
それでも。
彼女は、踏み込みすぎた。
後で渡された彼女のログ。その評価は、良くも悪くも、はっきりしていた。
彼女の判断は早い。状況把握も的確。だが、地域事情への配慮に欠ける、と。
ジェンメリアは納得していない。
「やらなかった」のではない。「やれなかった」ことが、悔しかった。
そして同時に、理解もしている。
ここは、疫病都市とは違う。
正しさを押し通せば、壊れる場所だ。
それでも。
彼女は目を逸らさなかった。
土埃の向こうで担架に乗せられる男の姿を、最後まで見届けていた。




