第4章 選んだあとの距離 第3話 終わらない判断 3/5
候補生たちは、机の上に手を置いたまま、誰も話さなくなった。
指先に力が入り、紙の端がわずかに折れる。視線は落ちたまま、教室には息遣いだけがかすかに残っている。
講師が指を一度鳴らすと、白いボードに、たった一行だけが表示された。
『失敗事例記録 No.217』
乾いた文字列が、静かに浮かび上がる。
「次に、実例から──」
その声には、説明も装飾もなかった。
白いボードに簡単な図が描かれる。区画、矢印、円で囲まれた感染源。簡潔すぎるほどの構図。
「この現場は、地方都市です。
感染症が発生しました」
さらに追加された文字が表示された。
患者数:十四名
使用可能奇跡:浄化・一回
「浄化を使えば、感染源は断てます。
ただし──。
発症済みの患者は、助かりません」
“助からない”
その言葉に、候補生の何人かが息を呑む。
喉が鳴る音すら、やけに響いた。
「その時の聖女の判断です。
現場に派遣された聖女は、若年でした。
──初任務です」
その言葉に、候補生の背筋が強張る。
自分たちと、遠くない未来。
講師は感情を交えずに続けた。
「彼女は、発症者の中に泣いている子どもを見つけました。
浄化を使えば、その子は死ぬ。
使わなければ、感染は広がる──」
資料を読みながら、ちらりとボードに視線を向け、講師は指先を宙に泳がせる。
同時に二つの選択肢の文字が表示された。
講師の声は淡々と続き、講義室の空気は重く沈んでいく。
『① 浄化を使う』
『② 使わない』
「彼女は、浄化を使いませんでした。
理由は、報告書に残っています。読みます。
『あの子が、私を見て、手を伸ばしました』
『それを、振り払うことができなかった』
三日後──。感染者、二百七十三名。死者、五十八名」
ざわり、と候補生たちの小さな息遣いが広がる。
数字が、重さを持って胸に落ちる。
「その中に、最初に泣いていた子どもも含まれます」
「……」
沈黙。
誰も、顔を上げられない。机の木目を見つめたまま、動けずにいる。
追い打ちをかけるように、講師は問いかけながら候補生たちを見渡した。
「では、ここで質問です。
この聖女は、間違ったことをしましたか?」
答えは出ない。
それでも、誰かが、かすれた声で言った。
「……人としては、正しいと……」
講師は、その言葉を遮らない。
白いボードには、新たに文字が表示される。
『判定:重大判断ミス』
冷たい断定だった。
「判定は重大判断ミス。評価は、失敗です。
理由は、感情による判断。
彼女は、結果を想定していました。それでも、感情を優先した──。
感情は、尊い。
ですが、聖女の感情は、他者の命より重く扱われません。
あなた方も、同じ判断をするでしょう。
ここにいるほとんどが、同じ場面で、同じ選択をする。
だからこそ、感情は、判断理由になりません。
感情は、判断の“背景”にはなります。
しかし、結論にしてはいけません。
結論にした瞬間、あなたは一人を救い、百人を殺すでしょう」
その事例は、候補生たちの胸の奥で冷えたまま残った。
机に視線を落としたまま、誰も動けない。
さっきまで「正しさ」だと思っていた感情が、明確に“失敗”として記録される。
その現実を、胸の奥で噛みしめていた。
誰かが、小さく呟く。
「……じゃあ、私たちは、何を信じればいいんですか」
講師は、その問いに答えなかった。
ただ、静かに候補生たちを見つめていた。




