第4章 選んだあとの距離 第3話 終わらない判断 1/5
教室に入った瞬間、候補生たちは気づいた。
空気が、いつも以上に……重い。
机の配置はいつもと同じだった。
机上には、いつもの通り最低枚数の記録紙と羽根ペン、そしてタブレット端末が整然と置かれている。
教壇から教卓の様子も変わらない。資料も揃っている。
だが──。
その日は、講師がすでにそこに立っていた。
白衣の男。目の下には深い隈がある。
疲労か、それとも別の何かか。淡い照明の下で、その影はくっきりと浮かんでいた。
その存在に戸惑いながら、候補生たちは実技訓練の疲れを纏ったまま、静かに席についていく。椅子を引く音すら、どこか遠慮がちだった。
「入室した方から席についてください。
僕は以前、奇跡運用学で講義したんですが──。
皆さん、僕のこと覚えていますか?」
柔らかい口調だった。
その声を聞き、候補生たちは白衣の男の存在を思い出していく。淡々と、死亡記録を読み上げた講義。静かな教室。息を詰める時間。
「あ、いえ。僕自身のことは覚えていなくて良いです。
でも講義内容は思い出してください。
最後に聖女の死亡記録と生き残った聖女の事例──と言えば思い出しますかねえ……?」
彼は教卓に立たず、教室の端へ寄り、候補生たちをゆっくりと見渡していた。
まるで、数を数えるように。
「……全員、戻ってきましたね」
それだけ言って、しばらく沈黙する。
誰も返事をしなかった。
疫病都市から戻ったあと、候補生たちはもう、“声を出すこと”そのものに慎重になっていた。
「結構です。
まだ、気を抜かないでください」
男は静かに言った。
わずかに空気が動く。だが、すぐに続く言葉が、それを押し潰した。
「皆さんは、もう体験しました。
誰が、何をしたか。どんな判断が、どんな結果を生んだか」
名前は出されない。
だが、誰もが同じ人物を思い浮かべる。
ジェンメリアの行動。
奇跡の使用。
結果として残った数字。
「だから、今日は問いません。
“正しかったかどうか”を──。
今から話すことにも、正解はありません。
ですが。
選んだ結果から逃げることも、できません」
その言葉だけで、講義室の空気はさらに重くなる。
彼が二回、指を鳴らす。
乾いた音が響いた瞬間、講義室の前方に、黒板の代わりに白いボードが現れた。淡い光を帯び、壁から静かにせり出す。
「想定状況を提示します」
白衣の男は、今度は一度だけ指を鳴らし、指先を宙に泳がせた。
白いボードに文字が表示される。
魔力残存量:低
使用可能な奇跡:一回
目の前に重症者が三名
全員を救うには奇跡が三回必要
「使える奇跡は一回だけ。
では、質問です。
誰を救いますか」
「……」
沈黙。
誰も、すぐには答えない。
視線が机に落ち、指先がわずかに動く。呼吸の音だけが、やけに近い。
講師は、追い打ちをかけるように条件を足した。
「条件を加えます。
三人は、同じ年齢です。
同じ怪我の重さです。
社会的立場も、背景も同じ。差は、ありません」
足される条件を聞きながら、候補生たちの表情が強張る。
逃げ道が、一つずつ塞がれていく。
「では、もう一度。
誰を救いますか」
候補生の一人が、恐る恐る口を開いた。
「……抽選、では?」
講師は頷く。
「一つの選択です」
別の候補生が言う。
「一番、助かる可能性が高い人を」
「合理的ですね」
さらに別の声が、ためらいながら続く。
「一番苦しんでいる人を……」
講師は、その言葉を否定しなかった。
だが、肯定もしない。
「では、教えます」
白いボードに新たに文字が表示される。
『誰を選んだか』
『なぜ、その一人だったのか』
『その理由を、最後まで持ち続けられるか』
「重要なのは、選択そのものではありません。
選ばなかった二人を、あなたが“どう扱うか”です」
その講師の言葉に、ざわ……と小さく空気が揺れた。
誰かが息を呑み、誰かが視線を上げる。
教室は静かなまま、確かに揺れていた。




