第77話 死者の谷の深淵
レオンは金属板を指で撫ぜながら、その表面に刻まれた細かい紋様を確認した。
魔術陣の中心には、小さな水晶が埋め込まれていたが、今は砕け、無数の破片が暗い土の上に散らばっていた。
そのパターンは、革の筒の中の文書に描かれていたものと完全に一致していた。
彼はゆっくりと口を開き、声は霧に包まれた谷に低く響いた。
「殿下は、単なる権力闘争を超えた何かを追求している」
レオンが低く言う。
目は砕けた水晶の残骸に釘付けだった。
「金歯車傭兵団が守っていた『試作機』、グスタフ男爵が恐れていた『制御不能』の技術……そしてこの霧の巨人。すべてが繋がっている」
キースが突然、地面に蹲る(うずくま)。
彼は砕けた水晶の破片の傍らで、何かを見つけたようだ。
指が土を掻き分け、細かい砂礫の中から銀色の光を摘み上げる。
「レオン、これを見ろ」
レオンが近づく。
キースが指さすのは、水晶の破片に絡みついた、細い銀色の糸だった。
それは髪の毛ほど細く、光にかざすと微かに虹色に輝く。
見ているだけで、何か異質な生命力が感じられる
「これは何だ?」
ガレスが眉をひそめる。
大斧を握る手に力が込められる。
アーサーが慎重に糸を拾い上げ、目を細めて観察する。
「……精霊の髪ではない。金属でもない。これは……生きている?」
糸がアーサーの指の中で微かに脈動する。
アーサーが驚いて手を離すと、糸は空中でくるくると旋回し、やがて谷の奥深くへと消えていった。
エリザが険しい表情で谷の奥を見つめる。
「『機神の炉』は、この先にある。
伝説では、古代の機神術師たちが最後の拠点とした場所だ。
しかし、千年もの間、誰もその場所を確認した者はおらず……生きて戻った者もいない」
レオンは霧見の水晶を握りしめる。
水晶はまだ温かく、微かに鼓動しているように感じられる。
それは谷の霧と共振し、まるで生き物のように彼の手の中で脈打っていた。
「我々には選択の余地はない」
レオンが言う。
声は静かだが、決意に満ちていた。
「殿下がこの技術を手に入れれば、王国どころか、世界全体が危険に晒される。我々が止めねばならない」
アーサーがうなずく。
杖を地面に立て、霧の中に視線を投げる。
「だが、注意が必要だ。古代の機神術は、現代の魔術とは根本的に異なる。それは生命と機械の境界を曖昧にする技術だ。先ほどの霧の巨人は、単なる機械ではなく、何らかの『生命』が関与していた」
ガレスが大斧を肩に担ぐ。
「生命だろうが機械だろうが、敵は敵だ。切り裂けばいい」
「単純な問題ではない」
アーサーが警告する。
「機神術の核心は『融合』にある。もし殿下がそれを手中に収めれば……」
アーサーの言葉が途切れる。
谷の奥深くから、かすかな音が聞こえてきた。
それは、多くの歯車が同時に回転する音、蒸気が噴出する音、そして…かすかに聞き取れる詠唱のような声が混ざり合った不気味な響きだった。
音は霧の中に拡散し、岩壁に反射して、まるで谷全体が生きているかのような錯覚を生んだ。
レオンが仲間たちを見渡す。
ガレスは戦闘態勢を整え、アーサーは警戒して杖を握りしめ、周囲の魔術的な波動を感知しようとしている。
キースは谷の奥を鋭く見据え、細かい音の方向を探っている。
エリザと東嶺の精鋭たちも、決意に満ちた表情で待機している。
「行くぞ」
レオンが静かに言う。
「真実が何であれ、我々はそれに向き合う。それが民衆勇者の旅だ」
一行は、霧が薄まった死者の谷の奥へと歩みを進める。
岩壁に刻まれた古代の紋章が、霧見の水晶の光に照らされ、不気味な影を落とす。
谷は次第に狭くなり、天井が低くなる。
やがて、人工的に掘られたトンネルの入り口が現れる。
それは岩壁をくり抜いたもので、入り口には同じ古代の紋章が刻まれていた。
レオンは一瞬立ち止まり、トンネルの暗い奥を見つめる。霧見の水晶がより強く鼓動し、まるで警告しているかのようだった。
彼は仲間たちに視線を投げ、そして深く息を吸う。
「中へ進む。だが、常に警戒を」




