第65話 霧の谷の導き手
朝もやが東嶺の城塞を覆う中、エリザは灰色と緑の迷彩外套を翻して隊列の前に立った。
20名の精鋭は、山岳地帯に特化した軽装備を身にまとい、一糸乱れぬ姿勢を保っている。
彼らの目には、霧の谷で育った者だけが持つ、地形を読み解く鋭さが宿っていた。
「フリーデリカ様の命を受け、皆さんを『死者の谷』へ導きます」
エリザの声は澄んでいて、霧を切り裂く鈴の音のようだった。
彼女が振り返り、背後に控える兵士たちを示す。
「彼らは皆、霧の谷で育ち、その迷宮のような地形を体で覚えています。一本の道なき道も、風の音で方角を知り、岩肌の苔で高度を測れる者ばかりです」
レオンが一歩前に出て、彼女の手をしっかりと握った。
騎士の手には、長年の鍛錬でできた硬いまめがあったが、エリザの手は驚くほど滑らかで、確かな握力に満ちていた。
「感謝する、エリザ。君の導きがなければ、我々は谷の入り口さえ見つけられないだろう」
ガレスがエリザの背中に注目した。
そこには、二本の細身の剣がX字に交差して収められていた。
柄には霧の模様が彫られ、鞘は山岳地帯で採れる特殊な木材でできている。
「二刀流か。見事な剣さばきだろうな。霧の中で二本の剣を操るとは、並大抵の技量ではない」
エリザはわずかに微笑み、片手を剣の柄にかけた。
「霧の中では、視界が利かないことが多い。敵がどこから現れるか、一本の剣では守りきれません。二本あれば、攻撃と防御を同時にこなせます。谷の民は皆、こうして戦う術を身につけています」
その時、アーサーが杖をつきながら近づいてきた。老魔術師の目は、深い霧の向こうを見透かすかのように鋭かった。
「『死者の谷』……その名の由来は何か? 単なる地形の険しさだけではないだろう」
エリザの表情が一瞬曇った。
彼女は谷の方向を見つめ、ゆっくりと語り始めた。
「かつて、東嶺と西山の境界争いが最も激しかった地です。100年以上前の戦いで、何百人もの兵士が霧の中で道に迷い、餓死し、あるいは谷底に落ちて命を落としました。その後、奇妙な噂が立つようになりました。霧の中から金属音が聞こえる、光る目がちらつく、迷った兵士の声が風に乗って聞こえる……そして10年前、5人の探検隊が入ったきり、2人だけが生還しました。その2人が口にしたのは『動く金属の巨人』という言葉だけでした。彼らはその後、正気を失い、今も城塞の療養所で暮らしています」
キースが片目を細め、腰の短剣に手をやった。
「金歯車兵団が守っている『機神の炉』……それが谷のどこかにある。金属の巨人とは、彼らが作り出した守護者だろう」
「その通りです」
エリザが深くうなずいた。
「我々の偵察隊が、谷の入り口付近で金歯車の斥候を確認しています。しかし、霧が深すぎて、それ以上深入りはできませんでした。彼らは谷の地形を利用し、完璧な隠れ場所を作り上げているのです」
レオンが懐から、フリーデリカから託された『霧見の水晶』を取り出した。
掌大の水晶玉は、内部に微かな光をたたえ、ゆっくりと回転しているように見えた。
水晶を覗き込むと、霧の向こうの景色が、まるで水が澄んでいくように見えてくる気がした。
「これがあれば、霧の中でも数十メートル先まで見通せるとのことだ。フリーデリカは、これが我々の最大の武器になると言っていた」
エリザが水晶を見て、目を見開いた。
彼女の手がわずかに震えた。
「これは……フリーデリカ様の秘宝の一つ。東嶺の歴代領主が伝えてきた、霧を統べる水晶。本当に託されたのですね。ならば、成功の可能性はぐっと高まります。しかし、ご注意を。この水晶も万能ではありません。谷の最深部、『機神の炉』に近づけば近づくほど、金歯車兵団の仕掛けた妨害魔法が強くなり、水晶の効力も弱まるでしょう」
エリザは隊列の前に立ち、外套のフードをかぶった。
「では、出発します。皆さん、私の歩幅に合わせてください。霧の中では、三歩以上離れると、もう二度と合流できません。谷の民は、前を行く者の背中の模様で誰かを識別します。私の外套の背中にある、銀糸で縫われた霧鳥の紋章を常に視界に入れておいてください」
二十名の精鋭が一斉にうなずく。エリザはレオンの目を見つめ、小さく頷いた。
「では、行きましょう。死者の谷へ」
彼女が一歩を踏み出すと、霧がまるで生き物のように道を開けた。一行は静かに城門を出て、朝もやに包まれた山道へと消えていった。
背後では、フリーデリカが城壁の上から彼らの背中を見送り、そっと祈りの言葉を囁いていた。




