永遠のはじまり
国心環の間には三人しかいなかった。
神官長。
ユリア。
そしてセレス。
重い沈黙が流れている。
神官長は静かに国心環を見上げた。
本来の白さを失った環は、今にも崩れそうなほど不安定だった。
もう時間はない。
それは誰の目にも明らかだった。
セレスはゆっくり前へ進む。
白い法衣の裾が揺れる。
その姿を見ているだけで、胸が苦しくなる。
「聖女様」
神官長が呼んだ。
セレスが振り返る。
神官長はしばらく言葉を探した。
だが結局。
何も見つからなかった。
「……申し訳ありません」
最後に出たのはそんな言葉だった。
神官長らしくない。
けれど本心だった。
もっと早く気付けていたら。
もっと早く止められていたら。
そんな思いが滲んでいた。
セレスは首を横に振る。
「謝らないでください」
穏やかな声だった。
「神官長には感謝しています」
十五歳の頃から。
ずっと見守ってくれた。
厳しく。
優しく。
時には父親のように。
だから。
最後に伝えたかった。
「ありがとうございました」
神官長は目を閉じた。
そして静かに頭を下げる。
それ以上は何も言わなかった。
言えば涙が出そうだったから。
セレスは隣を見る。
ユリアがいた。
ずっと黙ったまま。
けれどその瞳だけは一度も逸れなかった。
「ユリア」
呼ぶ。
ユリアは答えない。
ただ近付いてくる。
そして。
セレスの手を取った。
強く。
離さないように。
「……まだ間に合う」
掠れた声だった。
「ユリア」
「まだ間に合う」
同じ言葉を繰り返す。
祈るように。
縋るように。
セレスは泣きそうになる。
やめてほしかった。
そんな顔をされたら。
決意が揺らぐ。
「ごめん」
小さく言う。
ユリアは目を閉じた。
もう答えは変わらない。
知っている。
誰よりも。
だから。
手を離さなかった。
セレスは国心環へ向き直る。
ゆっくりと手を伸ばした。
接続する。
その瞬間。
世界が白く染まった。
無数の白い糸。
空を埋め尽くすほどの光。
人々の願い。
悲しみ。
怒り。
後悔。
希望。
全部。
全部がセレスへ流れ込んでくる。
「っ……!」
膝が震える。
胸が焼けるように痛い。
呼吸ができない。
それでも。
手だけは離さなかった。
白い糸が集まる。
国中から。
何百年も蓄積されたものが。
全部。
セレスへ。
神官長は息を呑む。
国心環が変わっていく。
灰色が消えていく。
少しずつ。
確実に。
浄化されている。
そして。
その時だった。
「……何だ」
ユリアが呟く。
セレスが振り返る。
ユリアは空を見ていた。
「見える」
震える声だった。
「白い光が……」
セレスは微笑む。
ユリアにも見えた。
最後に。
ほんの少しだけ。
「見えた?」
ユリアは頷く。
言葉が出ない。
セレスは嬉しかった。
自分が見ていた景色を。
最後に共有できたことが。
嬉しかった。
国心環は輝きを取り戻していく。
九十。
八十。
七十。
数字は見えない。
けれど分かる。
減っている。
浄化されている。
何百年も積み重なった負荷が。
消えていく。
その代わり。
セレスの身体は限界へ近付いていた。
赤い痕が腕を覆う。
胸が痛い。
苦しい。
怖い。
そして。
国心環が完全な白を取り戻した。
ゼロ。
初めて。
何百年ぶりに。
国心環は空になった。
同時に。
セレスの身体から力が抜ける。
ユリアが抱き止めた。
「セレス!」
呼ばれる。
大好きな声だった。
セレスは微笑む。
「終わったね」
「ああ」
ユリアの声が震えている。
そこで。
張り詰めていたものが切れた。
涙が溢れる。
「嫌だ……」
小さな声だった。
「死にたくない」
ユリアが息を呑む。
「もっと生きたい」
涙が止まらない。
「来年も」
震える声。
「再来年も」
「もっとずっと……」
言葉が途切れる。
セレスはユリアの服を掴んだ。
「一緒にいたい」
それが本音だった。
聖女じゃない。
ただのセレスの願い。
ユリアは泣いていた。
初めて。
隠し切れずに。
「ああ」
それしか言えない。
セレスは笑う。
泣きながら。
幸せそうに。
「愛してる」
ユリアは額を寄せた。
「オレもだ」
そして。
唇を合わせた。
短く。
優しく。
別れを惜しむように。
セレスは最後にユリアを見つめた。
大好きな人を。
忘れないように。
しっかりと。
「ありがとう」
それが最後だった。
セレスは静かに目を閉じる。
呼吸が止まる。
身体から力が抜ける。
もう動かない。
ユリアはセレスを抱き締めた。
離さなかった。
その時。
一本の白い糸が現れる。
今までで一番美しい糸。
セレスの胸から伸びる。
国心環へは向かわない。
まっすぐ。
ユリアへ向かう。
ユリアだけが見ていた。
糸は静かに胸へ溶け込む。
温かかった。
まるで。
最後の抱擁みたいに。
神官長は二人を見つめる。
そして。
何も言わずに少しだけ距離を取った。
最期くらいは。
聖女と護衛ではなく。
セレスとユリアでいてほしかった。
だから。
ただ静かに見守った。
この日を境に。
国心環は空になり。
ユリアの時間は止まった。




