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限界



 翌朝。


 神官長は一人で国心環の間へ向かっていた。


 長い石の階段を下りる。


 静かな場所だった。


 神殿の中でも限られた者しか入れない。


 聖女。


 神官長。


 それだけ。


 扉を開く。


 冷たい空気が流れた。


 中央には国心環がある。


 巨大な白い環。


 神聖で。


 美しく。


 本来なら。


 そう見えるはずだった。


「……」


 神官長は言葉を失う。


 初めてだった。


 恐怖を覚えたのは。


 国心環の表面が曇っている。


 白ではない。


 灰色に近い。


 脈打つように揺れていた。


 不安定だった。


 今にも崩れそうなほど。


「ここまで……」


 想定以上だった。


 記録上は九十八。


 だが。


 実際はもっと危険かもしれない。


 神官長はそっと手を伸ばす。


 接触する。


 その瞬間。


 激しい痛みが走った。


「っ!」


 思わず手を離す。


 呼吸が乱れる。


 額に汗が滲む。


 聖女ではない神官長ですらこれだ。


 毎日接続していたセレスは。


 どれほどの痛みに耐えていたのだろう。


 神官長は目を閉じた。


 嫌な予感がする。


 いや。


 予感ではない。


 確信だった。


 もう時間がない。


 その日の午後。


 神官長は再び二人を呼んだ。


 セレス。


 ユリア。


 神官長。


 三人だけ。


 部屋へ入った瞬間。


 セレスは察した。


 良い話ではない。


 神官長の顔を見れば分かる。


「国心環を確認しました」


 静かな声だった。


「状況は想定以上です」


 セレスは黙って聞く。


 ユリアも。


「持って数か月」


 神官長が言う。


 部屋が静まり返る。


「早ければ数週間です」


 ユリアの顔色が変わった。


 セレスも息を呑む。


 あまりにも早い。


「そんなに……」


「はい」


 神官長は頷く。


「このままなら国心環は機能を失います」


 それが意味するものは分かる。


 国の崩壊。


 人々の不安。


 災害。


 混乱。


 歴史書でしか読んだことがない事態。


 神官長は資料を閉じる。


 そして。


 初めて口にした。


「聖女様」


 重い声だった。


「決断の時です」


 セレスは目を閉じる。


 予想していた。


 いつか来ると。


 だが。


 こんなに早いとは思わなかった。


「方法は二つです」


 神官長が続ける。


「接続しない」


「国心環を見捨てる」


 ユリアは何も言わない。


 黙って聞いている。


「あるいは」


 神官長の声が震えた。


「接続する」


 沈黙。


 誰も続きは言わない。


 言わなくても分かる。


 接続すれば。


 セレスは助からない。


 神官長も。


 ユリアも。


 セレスも。


 全員知っている。


 長い沈黙の後。


 セレスは静かに口を開いた。


「神官長」


「はい」


「準備をお願いします」


 ユリアが立ち上がった。


「セレス!」


 叫ぶ。


 セレスは振り返らない。


「決めたのか」


 ユリアの声が震えている。


 怒り。


 悲しみ。


 絶望。


 全部混ざっていた。


 セレスはゆっくり頷く。


「はい」


 小さな声だった。


「決めました」


 ユリアは何も言えなくなる。


 神官長も目を閉じた。


 止められない。


 もう。


 誰にも。


 セレス自身ですら。


 この決意だけは変えられない。


 その時だった。


 セレスの視界に白い糸が現れる。


 一本や二本ではない。


 何十本。


 何百本。


 窓の外。


 街の方角。


 国中から。


 無数の白い糸が空へ伸びている。


 今まで見たことのない光景だった。


 そして。


 初めて。


 セレスは理解した。


 あれが。


 国心環へ流れ込むもの。


 人々の願い。


 悲しみ。


 苦しみ。


 希望。


 全部。


 全部だった。


 胸が痛む。


 今までで一番強く。


 それでも。


 セレスは目を逸らさなかった。


 静かに立ち上がる。


 そして窓の外を見る。


「綺麗だね」


 ぽつりと呟いた。


 ユリアは何も答えなかった。


 答えられなかった。


 その横顔が。


 あまりにも覚悟を決めていたから。


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