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神官長の怒り


 その日の夕方。


 神官長室の空気は重かった。


 セレス。


 ユリア。


 神官長。


 三人だけだった。


 机の上には報告書が置かれている。


 医務室で起きた出来事。


 浄化。


 胸の痛み。


 そして。


 手首の痕。


「見せてください」


 神官長が言った。


 静かな声だった。


 だからこそ怖い。


 セレスは手袋を外す。


 右手を差し出した。


 神官長は何も言わない。


 ただ赤い線を見つめる。


 一本。


 二本。


 三本。


 細い糸のような痕。


 神官長は指先で触れた。


 傷ではない。


 火傷でもない。


 そのことを確認するように。


 やがて。


 深く息を吐く。


「いつからですか」


「一昨日です」


 セレスが答える。


「最初は一本でした」


「胸の痛みは」


「同じ頃です」


 神官長は目を閉じた。


 しばらく何も言わない。


 部屋には静寂だけが流れる。


 そして。


「なぜ報告しなかったのですか」


 低い声だった。


 セレスは少し驚く。


 怒っている。


 神官長が。


 はっきり分かるくらいに。


「大したことではないと」


 言い終わる前だった。


「大したことです」


 神官長が遮った。


 セレスは黙る。


 神官長が声を荒げることは滅多にない。


 少なくともセレスは見たことがなかった。


「胸の痛み」


「原因不明の痕」


「接続外での白い糸視認」


 神官長は一つずつ並べる。


「どれも記録にありません」


 その言葉は重かった。


 歴代聖女の記録。


 何度も読んだ。


 何度も調べた。


 その神官長が言っている。


 記録にないと。


「聖女様」


 神官長は真っ直ぐセレスを見る。


「あなたは今、自分が何をしているのか分かっていますか」


 セレスは答えられなかった。


 分からない。


 本当に分からないのだ。


 人を助けている。


 それは分かる。


 だが。


 代償として何を失っているのか。


 それは分からない。


 神官長は拳を握り締めた。


 珍しいことだった。


 感情を表に出さない人なのに。


「私は」


 そこで言葉が止まる。


 何かを堪えるように。


 そして。


「あなたを失いたくありません」


 部屋が静まり返った。


 セレスは目を見開く。


 神官長も。


 言ってから気付いたようだった。


 感情が漏れたことに。


 だが撤回しない。


 視線も逸らさない。


「聖女だからではありません」


 静かな声だった。


「国のためでもありません」


 少しだけ疲れた顔で笑う。


「私はあなたを十五歳の頃から見ています」


 セレスは何も言えない。


「努力家で」


「無理をして」


「自分のことは後回しで」


 神官長はため息を吐いた。


「だから心配しているんです」


 父親みたいだ。


 不意にそんなことを思った。


 セレスには父の記憶はほとんどない。


 だから分からない。


 けれど。


 もし父親というものがいるなら。


 こういう顔をするのかもしれない。


 隣を見る。


 ユリアは黙っていた。


 だが。


 どこか安堵したような顔をしていた。


 神官長が同じ気持ちだと分かったからかもしれない。


「聖女様」


 神官長が言う。


「しばらく浄化行為を禁止します」


 予想していた言葉だった。


 だが。


 セレスは首を横に振れない。


 それが正しい。


 そう思う。


 思うのに。


 胸の奥が苦しかった。


 苦しんでいる人を見てしまったら。


 また手を伸ばしてしまう気がした。


 神官長はその表情を見ていた。


 そして。


 静かに目を閉じる。


 分かってしまったのだ。


 セレスが止まれないことを。


 聖女だから。


 そんな理由ではない。


 もっと単純だ。


 目の前の人を助けたい。


 ただそれだけ。


 だから。


 誰より危うい。


 神官長はゆっくり立ち上がった。


「記録室へ行きます」


 そう言った。


「もう一度、初代聖女の記録を調べます」


 今まで見落としていた何かがあるかもしれない。


 そう思った。


 なければ困る。


 このままでは。


 本当に手遅れになる気がしたから。


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