消えた糸
神殿へ戻るなり、セレスは神官長室へ向かった。
診療所で起きたことを忘れないうちに伝えたかった。
「糸が消えたのですか」
神官長は珍しく立ち上がった。
驚いている。
それが分かった。
「はい」
セレスは頷く。
「触れた瞬間に」
神官長は黙り込む。
机の上にはいつもの記録。
歴代聖女の資料。
接続記録。
だが、そのどこにも書かれていない話なのだろう。
「ユリア殿」
神官長が振り返る。
「見ましたか」
「見てない」
ユリアは即答した。
「オレには糸は見えない」
「ただ」
少し考える。
「触れた瞬間、セレスの顔色は変わった」
神官長は頷いた。
記録するように紙へ何かを書き込む。
「女性の様子は」
「楽になったと言っていました」
セレスが答える。
「体調が良くなったかは分かりません」
「ですが」
「明らかに雰囲気は変わりました」
神官長は再び沈黙した。
長い沈黙だった。
やがて。
「経過を確認しましょう」
そう言った。
「確認?」
「その女性です」
神官長は書類を取り出す。
診療所の利用記録だ。
名前も住所も記載されている。
「再発するか」
「改善するか」
「まずはそこからです」
セレスは少し意外に思った。
もっと否定されると思っていた。
偶然だと。
思い込みだと。
だが神官長は違った。
真剣だった。
「聖女様」
「はい」
「今後、意図的に触れないでください」
セレスは少し困った顔になる。
「難しいですね」
「難しいでしょう」
神官長も否定しない。
転びそうな人を助けるなとは言えない。
それはセレスだからだ。
「ですから」
神官長が続ける。
「まずは観察です」
「分かりました」
そう答えるしかなかった。
その日の夜。
セレスは自室で考えていた。
机には記録用紙が並んでいる。
今まで見た糸。
場所。
人数。
特徴。
全部を書き出していた。
そして気付く。
見えた人たちは皆どこか疲れていた。
体調が悪そうだった。
悩みを抱えているようだった。
偶然だろうか。
何度も考える。
その時。
視界の端で白い糸が揺れた。
「また……」
セレスは立ち上がる。
窓の外。
一本の糸が見える。
以前ほど驚かなくなった。
慣れてしまったのかもしれない。
だが。
今回は少し違った。
糸の先が見える。
若い男性だった。
神殿の外壁近くに座り込んでいる。
顔を伏せていた。
セレスは目を細める。
見える。
白い糸が。
男性から空へ伸びている。
そして。
前より少しだけはっきり分かった。
その糸は男性から生えているのではない。
男性に絡みついているように見えた。
「……」
胸がざわつく。
今まで気付かなかった。
だが。
そう見える。
まるで重荷のように。
まるで鎖のように。
白い糸は男性へ絡みついていた。
そして国心環のある空へ伸びている。
セレスは無意識に窓へ手を伸ばす。
触れたい。
助けたい。
そんな衝動が湧く。
だが。
『今後、意図的に触れないでください』
神官長の言葉を思い出す。
セレスは手を止めた。
深呼吸する。
「観察」
小さく呟く。
今はまだ観察だ。
確証がない。
焦ってはいけない。
糸はしばらく漂った後、ゆっくり消えていった。
残されたのは男性だけだった。
だがセレスには分かった。
あれは偶然ではない。
白い糸は人と繋がっている。
そんな確信が少しずつ生まれ始めていた。




