内緒の時間
聖女には護衛がつく。
それは当然のことだった。
国にとって聖女は特別な存在だ。
何かあれば大問題になる。
だから護衛は常に同行する。
祈りの時も。
面会の時も。
移動の時も。
例外はほとんどない。
だからこそ。
「ユリア」
「なんだ」
「逃げよう」
ユリアは無言になった。
昼下がりの神殿の廊下。
仕事を終えたばかりのセレスが、真面目な顔でとんでもないことを言っている。
「逃げる?」
「うん」
「どこへ」
「内緒」
「オレに言ってる時点で内緒じゃないだろ」
「確かに」
セレスは納得した。
ユリアは納得しなかった。
「何を企んでる」
「企んでないよ」
「その顔は企んでる」
「失礼」
セレスは笑った。
絶対に企んでいる顔だった。
ユリアは知っている。
こういう時のセレスは止まらない。
そして大抵、少し楽しい。
だから結局付き合うことになる。
「三十分だけ」
セレスが言う。
「神官長には?」
「もう終わってるって言った」
「許可は」
「取った」
「本当に?」
「たぶん」
「取ってないな」
ユリアはため息を吐いた。
けれど止めない。
どうせ止まらないから。
セレスは嬉しそうに歩き出した。
神殿の裏手。
あまり人が来ない石畳の道。
さらに奥へ。
さらに奥へ。
「どこだ」
「もう少し」
「まだか」
「もう少し」
十分後。
辿り着いたのは古い温室だった。
神殿の敷地内にある。
けれど今はほとんど使われていない場所。
蔦が絡まり。
窓の一部は曇り。
それでも中には花が咲いていた。
「ここか」
「うん」
セレスは満足そうだった。
温室の扉を開ける。
暖かな空気が流れ出る。
「綺麗でしょ」
色とりどりの花。
柔らかな日差し。
静かな空間。
確かに綺麗だった。
「いつ見つけた」
「去年」
「去年?」
「たまに来る」
ユリアは眉をひそめた。
「一人で?」
「うん」
「危ない」
「危なくないよ」
「危ない」
即答だった。
セレスは苦笑する。
「ここ神殿の中だよ?」
「それでもだ」
「過保護」
「知ってる」
最近そのやり取りばかりだった。
でも嫌いじゃない。
セレスは花の間を歩く。
白い花。
青い花。
黄色い花。
名前も知らない花。
それらを眺めながら、楽しそうに笑っている。
「私ね」
「ん」
「ここ好きなんだ」
「そうか」
「誰も来ないし」
「寂しくないか」
「ううん」
セレスは振り返った。
柔らかく笑う。
「一人も嫌いじゃないよ」
その言葉は本当だった。
聖女になってから、人に囲まれることが増えた。
感謝される。
頼られる。
尊敬される。
それは嬉しい。
でも時々、一人になりたくなる。
何も考えず。
何も求められず。
ただ花を眺める時間が欲しくなる。
「でも」
セレスは少し考える。
「ユリアがいる方が好き」
さらりと言った。
ユリアは黙る。
突然そういうことを言う。
だから困る。
「聞いてる?」
「ああ」
「返事は?」
「そうか」
「反応薄い」
「急だ」
「本音なのに」
セレスは不満そうだった。
ユリアは視線を逸らす。
こういう時は負けだ。
昔からそうだった。
セレスの方がこういう言葉は上手い。
「ユリア」
「なんだ」
「顔赤い?」
「赤くない」
「赤いかも」
「気のせいだ」
セレスは楽しそうだった。
完全に遊ばれている。
それでも嫌ではなかった。
二人は温室の奥へ進む。
一番奥には小さな木製の椅子があった。
古びているけれど使えそうだ。
セレスはそこへ腰掛けた。
「ちょうどいい」
「何がだ」
「休憩」
言いながら隣を叩く。
座れという意味だった。
ユリアも腰を下ろす。
肩が触れる。
少し近い。
けれど離れない。
「ねえ」
「ん」
「今度、市場行きたい」
「またか」
「だめ?」
「変装するなら」
「する」
「勝手に行くなよ」
「行かない」
「本当か?」
「たぶん」
「行くな」
セレスは笑った。
ユリアも少しだけ笑う。
温室には二人しかいない。
鳥の声も届かない。
花の香りだけが漂う。
「こういう時間」
セレスがぽつりと言った。
「好き」
「そうか」
「うん」
それ以上は言わなかった。
言葉にしなくても伝わる気がした。
ユリアもそう思った。
何か特別なことをするわけじゃない。
手を繋ぐわけでもない。
抱きしめるわけでもない。
ただ隣に座っているだけ。
それだけなのに落ち着く。
安心する。
だから好きだった。
しばらくして。
「そろそろ戻るか」
ユリアが言った。
セレスは少しだけ残念そうな顔をする。
「もう?」
「三十分経った」
「早い」
「お前が言った時間だ」
「私の過去の発言を責めないで」
「無理だ」
立ち上がる。
セレスも続く。
そして温室を出る直前。
セレスはもう一度だけ振り返った。
花たちを見つめる。
それから。
「また来ようね」
そう言った。
ユリアは頷く。
「ああ」
それだけで十分だった。
二人は並んで歩き出した。
神殿へ戻るために。
いつもの日常へ戻るために。
肩が少しだけ触れる距離で。




