夜更かしの理由
ユリアがセレスの部屋を訪れたのは、夜もだいぶ更けた頃だった。
廊下には人の気配も少ない。
神殿全体が静かな眠りに包まれている時間だった。
扉をノックする。
返事はない。
もう一度。
やはり返事はない。
ユリアはため息を吐いた。
「入るぞ」
鍵はかかっていない。
扉を開ける。
予想通りだった。
「セレス」
「……あ」
机に向かっていたセレスが肩を跳ねさせる。
机の上には書類。
本。
手紙。
積み上がった紙束。
そして飲みかけの茶。
「何時だと思ってる」
「えっと」
「答えろ」
「たぶん怒ってる」
「答えろ」
「夜?」
「夜だな」
ユリアは机の横へ歩いていく。
書類を見る。
祭礼関係。
寄付関係。
面会記録。
神官へ返す確認書。
どう考えても今やる必要のないものも混ざっていた。
「寝ろ」
「あと少し」
「一時間前もそう言った」
「なんで知ってるの」
「侍女から聞いた」
「また裏切った」
セレスが机に突っ伏した。
最近、神殿の人間はみんなユリアの味方をする。
理不尽だと思う。
「セレス」
「あとちょっと」
「寝ろ」
「あと一枚」
「寝ろ」
「あと半枚」
「減ったな」
ユリアは呆れた。
本当にこういう時だけ頑固になる。
聖女の仕事に関しては特に。
「どうしてそこまでやる」
「仕事だから」
「明日でもいい」
「今日終わらせたい」
「理由になってない」
「私の中ではなってる」
どこかで聞いたような台詞だった。
ユリアは無言になる。
セレスは目を逸らした。
「真似したな」
「少しだけ」
「悪い癖だ」
「ユリアから教わった」
「教えてない」
ようやくセレスが笑う。
眠そうな顔だった。
目元には疲れが見える。
それなのにまだ仕事を続けようとしている。
ユリアは椅子の背もたれに手を置いた。
「立て」
「え」
「立て」
「嫌な予感がする」
「立て」
セレスは渋々立ち上がる。
次の瞬間。
「きゃっ」
体が浮いた。
ユリアに抱え上げられていた。
「ユリア!」
「寝るぞ」
「降ろして!」
「嫌だ」
「横暴!」
「知ってる」
そのまま歩き出す。
セレスは暴れようとして。
やめた。
どうせ勝てない。
剣士相手に力で勝てるわけがない。
「子供じゃないんだけど」
「知ってる」
「じゃあ降ろして」
「嫌だ」
「さっきからそればっかり」
「便利だからな」
全然反省していない。
セレスは頬を膨らませた。
そのまま寝台まで運ばれる。
そして下ろされた。
「終わった」
「終わってない」
「終わった」
「書類」
「明日」
「ユリア」
「明日」
完全に聞く気がない。
セレスは助けを求めるように机を見る。
もちろん誰も助けてくれない。
「理不尽」
「そうかもな」
「認めた」
「認める」
ユリアは毛布を広げる。
寝る準備まで始めた。
「ほら」
「……」
「寝ろ」
セレスは諦めて寝台へ腰を下ろした。
確かに眠い。
本当はかなり眠い。
目も重い。
頭もぼんやりする。
それでも。
「もう少し頑張れたのに」
「十分頑張った」
ユリアは即答した。
「今日は朝から祈りがあった」
「うん」
「面会もした」
「うん」
「相談も受けた」
「うん」
「なら終わりだ」
セレスは黙った。
こういう時のユリアはずるい。
ちゃんと見ている。
ちゃんと覚えている。
だから反論しにくい。
「ねえ」
「なんだ」
「私が寝たら帰る?」
ユリアは少し考えた。
「帰らない」
「え?」
「今日はここにいる」
セレスが瞬きをする。
「仕事は?」
「終わった」
「本当に?」
「ああ」
「珍しい」
「たまにはある」
そう言って椅子を引き寄せる。
寝台の隣へ。
完全に居座る気だった。
「ユリア」
「ん」
「もしかして」
「なんだ」
「私がまた起きて仕事しないように見張る気?」
沈黙。
答えは分かりやすかった。
「図星だ」
「信用ないなあ」
「ある」
「ないよ」
「ある」
「なら?」
「信用してる」
ユリアは言った。
「でもお前は無理をする」
セレスは言葉に詰まる。
否定できない。
少しだけ。
本当に少しだけ。
心当たりがあった。
「だから今日は見張る」
「過保護」
「今さらだろ」
またそれだ。
セレスは笑ってしまう。
そして寝台へ横になった。
毛布を被る。
温かい。
「ユリア」
「なんだ」
「手」
短い言葉だった。
ユリアは意味を理解する。
椅子から少し身を乗り出し、手を差し出した。
セレスが握る。
ほっとしたような顔になる。
「子供みたい」
「誰がだ」
「私」
「そうか?」
「こうしないと寝られない日がある」
セレスは小さく笑った。
少し照れながら。
「ユリアがいると安心するから」
その言葉にユリアは返事をしなかった。
代わりに手を握り返す。
それで十分だった。
部屋の灯りが揺れる。
窓の外では夜風が木々を鳴らしていた。
静かな時間。
セレスの瞼がゆっくり閉じていく。
「ユリア」
「ん」
「おやすみ」
「ああ」
「おやすみ」
少しして。
規則正しい寝息が聞こえ始めた。
本当に眠ったらしい。
ユリアは小さく息を吐く。
握られたままの手を見る。
眠っていても離していない。
「……まったく」
困ったように呟く。
でも口元は少し緩んでいた。
机の上にはまだ書類が残っている。
セレスなら気にするだろう。
朝起きたら慌てるかもしれない。
だからユリアは立ち上がった。
書類を整理する。
明日の朝、一番上に置いておけばすぐ終わるように。
ペンを片付ける。
冷めた茶を下げる。
そして再び椅子へ戻る。
眠るセレスを見る。
穏やかな顔だった。
聖女ではない。
人々の前で見せる微笑みでもない。
ただ安心して眠る恋人の顔。
ユリアは髪をひと房すくった。
さらりと指を滑る。
「ちゃんと寝ろ」
眠っている相手に言う。
返事はない。
当たり前だ。
それでも少しだけ満足して、ユリアは椅子にもたれた。
今夜くらいは。
このままでいい気がした。




