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記録にない症状



 翌朝。


 セレスは朝食もそこそこに神官長室へ向かった。


 昨日の出来事を放置する気にはなれなかった。


 ノックをする。


「どうぞ」


 中へ入る。


 神官長は既に仕事を始めていた。


 セレスの顔を見るなり手を止める。


「何かありましたか」


 その一言で分かる。


 神官長も警戒している。


 セレスは椅子へ座った。


「昨日、また白い糸が見えました」


 神官長は黙って聞く。


「今度は触りました」


 その瞬間。


 神官長の表情が変わった。


 本当に僅かだったが。


 セレスは見逃さなかった。


「何がありましたか」


 声も少し低くなっている。


 セレスは昨夜の出来事を説明した。


 白い糸。


 触れた瞬間の感覚。


 流れ込んできた感情。


 祈り。


 苦しみ。


 助けを求める声。


 全部。


 神官長は最後まで口を挟まなかった。


 話し終える。


 部屋が静かになる。


「記録にありますか」


 セレスが聞いた。


 神官長は首を横に振る。


「いいえ」


 予想外の答えだった。


「ありません」


「一件も?」


「少なくとも私が読んだ範囲では」


 セレスは眉をひそめる。


 歴代聖女にもない。


 それはそれで不安だった。


 神官長は少し考える。


 そしてゆっくり口を開いた。


「聖女様」


「はい」


「今まで接続中に、人の感情を感じたことはありますか」


 セレスは考える。


 そして頷いた。


「あります」


 祈祷中。


 嬉しい時もある。


 悲しい時もある。


 漠然とした感情が流れてくることはあった。


「では昨日との違いは?」


 セレスは答えに詰まる。


 違い。


 何だろう。


 少し考えて。


 ようやく言葉を見つけた。


「近かったです」


 神官長は黙って続きを待つ。


「いつもは遠くから感じるだけでした」


「でも昨日は違った」


 セレスは自分の胸へ手を当てる。


「誰か一人の感情みたいでした」


 言葉にすると少し怖かった。


 神官長はしばらく黙る。


 それから立ち上がった。


 窓際まで歩く。


 背中を向けたまま言った。


「仮説ですが」


 セレスは顔を上げる。


「国心環は人々の祈りを集めています」


「はい」


「もし聖女様との接続が深くなり過ぎた場合」


 そこで少し言葉を選ぶ。


「個人の祈りを直接拾う可能性があります」


 セレスは息を呑んだ。


 そんなこと。


 考えたこともなかった。


「それって」


「負担になります」


 神官長は振り返る。


「非常に」


 静かな断言だった。


 セレスは思わず視線を落とす。


 苦しかった。


 ほんの一瞬だったのに。


 あれが何人分も続いたら。


 想像したくなかった。


「神官長」


「はい」


「歴代聖女は」


 そこで言葉を止める。


 聞くのが怖かった。


 だが聞かなければならない。


「最後はどうなったんですか」


 神官長はすぐには答えなかった。


 やがて。


「記録によって違います」


 そう言った。


「ただ共通していることがあります」


 セレスは黙って聞く。


「皆、自分より他人を優先しました」


 部屋が静かになる。


 それは聖女らしい答えだった。


 あまりにも。


「だから無理をした」


 神官長が続ける。


「だから記録に残った」


 セレスは苦笑した。


 その気持ちは少し分かる。


 自分も同じことを考えるから。


 目の前に困っている人がいたら助けたい。


 それは当然だと思っている。


「聖女様」


 神官長が言う。


「同じことを考えていますね」


 図星だった。


 セレスは思わず視線を逸らす。


「顔に出ています」


 珍しく神官長がため息をついた。


「しばらく単独での接続は禁止です」


「え?」


「ユリア殿にも協力していただきます」


 セレスは驚いてユリアを見る。


 いつの間にか部屋の隅にいた。


「いたんですか?」


「最初からいた」


 呆れた声が返ってくる。


 どうやら自分が話に集中し過ぎていたらしい。


 神官長は二人を見る。


「これ以上は様子見では済みません」


 その言葉は重かった。


 セレスは小さく頷く。


 記録にない症状。


 それは安心材料ではない。


 むしろ逆だ。


 自分は今。


 歴代聖女の誰とも違う道へ踏み込み始めているのかもしれなかった。


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