聖女の休日
聖女にも休日はある。
もっとも、それは神殿の記録上の話だった。
祈りがない日でも相談は来るし、面会も入る。神官長から書類を渡されることもあれば、祭礼の準備に呼ばれることもある。
だから本当の意味での休日など、ほとんど存在しない。
それでも今日は珍しく予定が空いていた。
朝の祈りを終えた後、神官長からこう言われたのだ。
「本日はお休みください」
セレスは思わず聞き返した。
「私が、ですか?」
「はい」
「熱でも測りましょうか」
「なぜです」
「神官長がお休みくださいと言うなんて、何か異常事態かと」
周囲の神官たちが吹き出した。
神官長だけが深々とため息を吐く。
「聖女様」
「はい」
「休むのも仕事です」
「……善処します」
「休んでください」
「はい」
結局押し切られた。
そして今。
セレスは神殿の裏庭にいた。
白い石畳の小道。
色とりどりの花。
噴水の音。
春の陽気。
神殿の中とは思えないほど穏やかな空間だった。
隣にはユリアがいる。
当然のように。
「休日なのに護衛するの?」
ベンチに腰掛けながらセレスが聞く。
「護衛だからな」
「今日は襲われないと思う」
「明日もそう言ってくれ」
「それは無理」
セレスは肩をすくめた。
ユリアは呆れたように息を吐く。
そのやり取りだけで少し楽しくなって、セレスは笑った。
人前ではない。
だから口元も隠さない。
「ねえ」
「なんだ」
「お腹空いた」
「朝食は食べた」
「三時間前」
「普通だ」
「私、成長期かもしれない」
「十八だぞ」
「まだ伸びるかも」
ユリアは無言で立ち上がった。
「どこ行くの?」
「厨房」
「やった」
セレスが両手を上げる。
その姿はとても聖女には見えなかった。
ユリアは少しだけ口元を緩める。
「待ってろ」
「うん」
素直な返事。
それが妙に可愛くて、ユリアは何も言わず歩き出した。
十分後。
戻ってきたユリアの手には小さな包みがあった。
「なに?」
「焼き菓子」
「本当に?」
「本当にだ」
セレスは包みを受け取った。
中には蜂蜜を使った丸い焼き菓子が入っている。
一口かじる。
甘い。
思わず目を閉じる。
「おいしい……」
「そうか」
「幸せ」
「安上がりだな」
「失礼」
セレスは頬を膨らませた。
「私は聖女だから質素倹約を心がけてるの」
「昨日高い茶葉を隠してただろ」
「どこで知ったの!?」
「侍女が困ってた」
「裏切り者だ」
真剣な顔で言う。
ユリアは吹き出しそうになるのを堪えた。
セレスはこういう時、本当に年相応だった。
人々は知らない。
神殿の宝石よりも高価な品を贈られても平然としている聖女が、焼き菓子一つでこんな顔をすることを。
「……ユリア」
「ん?」
「笑った」
「笑ってない」
「今笑った」
「気のせいだ」
「絶対笑った」
セレスが身を乗り出してくる。
距離が近い。
あと少しで額がぶつかりそうだ。
「笑ってない」
「笑った」
「笑ってない」
「笑った」
しばらく睨み合う。
先に吹き出したのはセレスだった。
「あははっ!」
声を上げて笑う。
周囲に誰もいないことを確認してから、ユリアも肩を揺らした。
その時だった。
セレスの笑顔が不意に止まる。
胸元を押さえた。
「セレス」
「……大丈夫」
すぐに手を離す。
何事もなかったように。
いつものように。
けれどユリアは見逃さなかった。
「痛むのか」
「少しだけ」
「医師を呼ぶ」
「いらない」
「セレス」
「本当に平気」
その答えが早すぎた。
誤魔化す時の癖だった。
ユリアは眉をひそめる。
「最近多い」
「そうかな」
「そうだ」
セレスは視線を逸らした。
花壇の方を見る。
噴水の方を見る。
そして最後に小さく笑った。
「心配性」
「オレは本気だ」
「知ってる」
知っている。
ユリアはいつだって本気だ。
自分のことになると特に。
だから少し申し訳なくなる。
でも。
言えないこともある。
最近、夜になると胸が苦しい。
息が詰まるような感覚がある。
祈りの最中に立ちくらみを起こすことも増えた。
それでも医師には言っていない。
言えば休めと言われるから。
休めば誰かが不安になる。
聖女が体調を崩した。
その噂はすぐ広がる。
だから。
まだ大丈夫。
そう思っていた。
ユリアが自分を見ていることに気付いて、セレスは話題を変える。
「そういえば」
「なんだ」
「私が聖女じゃなかったらどうしてた?」
「急だな」
「いいから」
ユリアは少し考えた。
「剣士を続けてた」
「私は?」
「知らん」
「ひどい」
「会ってなかっただろうしな」
セレスは黙った。
それは確かにそうだった。
聖女にならなければ神殿には来ない。
神殿に来なければ護衛とも出会わない。
出会わなければ。
恋もしない。
セレスは焼き菓子を見つめた。
「それは嫌だな」
ぽつりと言う。
「会えないの」
ユリアが動きを止めた。
「嫌」
セレスは続けた。
「絶対嫌」
その言葉に嘘はない。
聖女になったことを後悔したことはない。
人々を救いたいと思う。
役目も果たしたいと思う。
けれど。
もし聖女にならなかった世界でユリアに会えないのなら。
それだけは嫌だった。
ユリアはしばらく何も言わなかった。
そして。
「オレもだ」
短く答えた。
それだけで十分だった。
セレスは嬉しそうに笑う。
まるで子供みたいに。
その笑顔を見ながら、ユリアは胸の奥に残る違和感を振り払えなかった。
さっき胸を押さえた時の顔。
ほんの一瞬だけ見えた苦しそうな表情。
いつもならもっと問い詰めていた。
医師を呼んでいた。
無理やり診察も受けさせていた。
けれど今日は休日だった。
久しぶりの穏やかな時間だった。
だから今だけは。
今だけは、この笑顔を見ていたかった。
セレスは焼き菓子を食べ終えると、満足そうに背もたれへ寄りかかった。
「眠い」
「寝ろ」
「膝貸して」
「外だぞ」
「誰もいない」
「……五分だけだ」
「やった」
セレスはすぐに横になった。
慣れた動きだった。
ユリアの膝に頭を乗せる。
目を閉じる。
そして三十秒もしないうちに寝息を立て始めた。
ユリアは思わず呆れる。
「早いな」
返事はない。
春風が吹く。
花びらが舞う。
陽だまりの中で眠るセレスは、本当にただの少女に見えた。
聖女ではない。
祈りの象徴でもない。
誰かの希望でもない。
ただ、自分の恋人だった。
ユリアはそっと髪を撫でる。
黒紫の髪が指の間を滑った。
「……無理するなよ」
眠っているから聞こえない。
それでも言わずにはいられなかった。
セレスは小さく身じろぎした。
安心したように。
甘えるように。
ユリアの服を握る。
その仕草に胸が締め付けられる。
守りたい。
ただ、それだけだった。




