聖女は泣かない
聖女セレスは、泣かない。
人々はそう信じていた。
祈りの間に立つ彼女は、いつも静かに微笑んでいる。白銀の礼装をまとい、胸元で両手を重ね、深く頭を垂れる姿は、まるで人ではなく神殿に置かれた美しい聖像のようだった。
幼い子供が熱に苦しむ時も、干ばつに怯えた農民たちが膝をつく時も、戦で息子を失った母親が声を上げて泣く時も、セレスは決して取り乱さなかった。
「大丈夫です」
彼女はそう言う。
「私が祈ります。どうか、顔を上げてください」
その声は柔らかく、揺らがない。
だから人々は安心する。
聖女様がそうおっしゃるなら。
聖女様が祈ってくださるなら。
聖女様は、きっと私たちを救ってくださる。
誰もがセレスを見上げる。誰もがセレスを信じる。誰もがセレスに、強さと慈悲と清らかさを求める。
その日も、祈りの間には多くの民が集まっていた。
神官たちが左右に並び、淡い金の灯が床を照らしている。中央には国心環へ祈りを捧げるための円形の祭壇があり、その上にセレスが立っていた。
黒紫の髪が、肩から背へ静かに流れている。
彼女は十八歳になったばかりだった。
けれどその横顔に、年相応のあどけなさを見つけられる者はいない。聖女として選ばれて以来、彼女はずっと人々の前に立ち続けてきた。弱音を吐くことも、怒ることも、泣くことも許されずに。
「聖女様」
年老いた男が、震える手で小さな布包みを差し出した。
「娘が……先月、流行り病で逝きました。これは娘が、聖女様へと……」
布の中にあったのは、拙い刺繍の入った白いハンカチだった。
セレスはそれを両手で受け取った。
「ありがとうございます」
彼女は微笑んだ。
「お嬢様のお気持ち、大切にいたします」
老人はその場に崩れ落ち、声を殺して泣いた。
セレスは膝を折り、その背にそっと手を添えた。
周囲の者たちは、感嘆の息を漏らす。
なんと慈悲深い。
なんと気高い。
なんと、聖女にふさわしい方なのだろう。
少し離れた柱の陰で、ユリアはその光景を見ていた。
水色の髪を後ろで一つに束ね、腰には剣。神殿の騎士たちと同じ護衛服を身につけてはいるが、彼女はどこか場に馴染まなかった。
姿勢は綺麗だ。立ち方に隙もない。けれど、祈りの間に漂う敬虔な空気の中で、ユリアだけが刃物のような静けさをまとっている。
セレスの護衛。
それが彼女の役目だった。
ユリアは祈りの間全体を見ていた。入口、神官、参列者、窓、柱の裏。誰が不自然に動いたか。誰の視線がセレスではなく別の場所を追ったか。誰の手が懐に入ったか。
それらを一つずつ確かめながら、それでも最後には必ずセレスへ視線が戻る。
セレスは笑っていた。
いつもの微笑みだった。
人々の前でだけ見せる、完璧な聖女の顔。
ユリアは眉をわずかに寄せた。
――疲れている。
他の誰も気づかない程度だった。声も姿勢も崩れていない。手の震えもない。けれどユリアには分かる。
セレスが微笑む時、ほんの少しだけ息を浅くする癖。
長く立っている時、左足に重心を逃がす癖。
限界に近い時ほど、声をいつもより柔らかくする癖。
全部知っている。
誰よりも近くで見てきたから。
祈りが終わると、人々は次々と頭を下げ、祈りの間を去っていった。神官たちも儀礼の片付けに移り、広い空間から少しずつ声が消えていく。
最後の一人が扉の向こうへ消えた時、セレスはまだ微笑んでいた。
「本日もありがとうございました」
神官長に向けて、丁寧に頭を下げる。
「聖女様こそ、お疲れでございましょう。どうぞお部屋でお休みください」
「ええ。そうさせていただきます」
セレスは最後まで優雅だった。
背筋を伸ばし、歩幅を乱さず、誰に対しても穏やかに微笑んで。
ユリアは黙ってその半歩後ろについた。
廊下を進む間、セレスは神官や侍女たちに声をかけられるたび、同じように微笑んだ。
「聖女様、本日は本当にお美しかったです」
「ありがとうございます」
「お身体に障りませんよう」
「ご心配をおかけして申し訳ありません。私は大丈夫です」
「先ほどのご老人も、きっと救われたことでしょう」
「そうであれば、嬉しいです」
完璧な受け答え。
完璧な聖女。
ユリアは何も言わない。
セレスの部屋の前まで来ると、侍女が扉を開けようとした。だがセレスはやんわりと首を振った。
「ここからは大丈夫です。少し一人で休みます」
「かしこまりました」
侍女は深く一礼して下がった。
廊下に残ったのは、セレスとユリアだけ。
扉が開く。
セレスが中へ入る。
ユリアも続いた。
扉が閉まった。
その瞬間、セレスの肩から力が抜けた。
「……つかれた」
敬語ではなかった。
人々の前では決して出さない、幼さの残る声だった。
ユリアは振り返り、扉に鍵をかける。
鍵が落ちる小さな音を聞いた途端、セレスはふらりとユリアの方へ歩いた。
「ユリア」
「ん」
「もう無理」
「分かってる」
ユリアが腕を広げるより早く、セレスはその胸に額を押しつけた。
白銀の礼装がかすかに揺れる。神殿の誰もが見惚れる聖女の装束は、今はただ重たそうだった。
「朝からずっと立ってた」
「ああ」
「神官長の話、長い」
「ああ」
「お腹も空いた」
「食べるか」
「その前に、このまま」
セレスはユリアの服を掴んだ。
「少しだけ」
ユリアは答えず、片腕でセレスの背を支えた。
華奢な体だった。
人々が思うより、ずっと細い。聖女の礼装は幾重にも布が重なっているから分かりにくいが、抱きしめればすぐに分かる。
軽い。
軽すぎる。
ユリアはその事実が嫌いだった。
「顔色が悪い」
「うん」
「昨日も眠ってないだろ」
「少しは寝た」
「少しじゃ足りない」
「ユリアって、私のお母さんみたい」
「恋人だ」
セレスが少しだけ顔を上げた。
その目が丸くなる。
次の瞬間、ふっと吹き出した。
「ふふっ……そうだった」
「忘れるな」
「忘れないよ」
セレスは笑った。
聖女の微笑みではない。
口元を隠すことも、声を抑えることもしない。大きく息を吐いて、肩を震わせて、年相応の少女みたいに笑った。
「ユリア、たまに真顔でそういうこと言うよね」
「事実だ」
「あははっ」
その笑い声を聞きながら、ユリアはセレスの髪に指を通した。
この笑い方を知っている者は、神殿にはいない。
聖女セレスは、慎ましく微笑む。
人々はそう信じている。
けれど本当は、こんなふうに笑う。
楽しい時には口を開けて、苦しくなるほど笑う。甘い菓子を食べた時には目を輝かせるし、寝起きは少し機嫌が悪い。祈りの言葉は一度で覚えるのに、道はよく間違える。怖い夢を見た夜は、何も言わずにユリアの手を探す。
それを知っているのは、ユリアだけだった。
セレスはひとしきり笑うと、またユリアの胸に顔を埋めた。
「……ねえ、ユリア」
「どうした」
「今日の人」
「あの老人か」
「うん」
セレスの声が小さくなる。
「娘さん、まだ十歳だったんだって」
ユリアは黙った。
「私、祈ったのに」
ユリアの服を掴む指に力が入る。
「間に合わなかった」
「お前のせいじゃない」
「分かってる」
セレスはそう言った。
けれど声は震えていた。
「分かってるけど……でも、あの人は私に祈ってほしかったんだよ。私なら救えるって、信じてた」
「セレス」
「私、聖女なのに」
その言葉を最後に、セレスは泣いた。
声を上げない。
けれど涙が、ユリアの服に染みていく。
人々は知らない。
聖女セレスが泣くことを。
救えなかった命を数えて、夜に眠れなくなることを。
人前では決して揺らがないその目が、本当は何度も涙で濡れてきたことを。
知っているのは、ユリアだけだった。
「泣いていい」
ユリアは言った。
「ここにはオレしかいない」
セレスは返事をしなかった。
ただ、ユリアの胸に額を押しつけたまま、小さく頷いた。
ユリアは彼女を抱きしめる。
強くしすぎないように。
けれど離れないように。
セレスの涙を、誰にも見せないように。
「ユリア」
「ん」
「私、ちゃんと聖女できてる?」
「できてる」
「本当に?」
「ああ」
セレスは涙に濡れた顔を上げた。
赤くなった目。
濡れた睫毛。
震える唇。
祈りの間にいた者が見れば、きっと息を呑んだだろう。
けれどユリアにとって、それはセレスの一部だった。
気高くて、強くて、優しくて。
そのくせ、本当は泣き虫で。
誰にも見せない弱さを、ユリアにだけ預けてくれる。
「なら、もう少し頑張る」
「今日は頑張るな」
「え?」
「もう休め」
ユリアはセレスの頬に残る涙を親指で拭った。
「聖女は明日もできる。だが、お前が倒れたら意味がない」
「……ユリアは過保護」
「そうだ」
「否定しないんだ」
「しない」
セレスはまた笑った。
今度は小さく、くすぐったそうに。
「好きだよ、ユリア」
その言葉は、祈りよりずっと静かだった。
けれどユリアの胸の奥に、刃のように深く入ってくる。
「オレも」
「知ってる」
「なら言わなくていいか」
「だめ。言って」
セレスは少しだけ唇を尖らせた。
「私は言った」
ユリアは息を吐いた。
剣を振るう時よりも、敵の前に立つ時よりも、こういう時の方が難しい。
けれどセレスが待っている。
泣いた後の赤い目で。
聖女ではない、ただのセレスの顔で。
「……好きだ」
「うん」
「愛してる」
セレスは満足そうに笑った。
「私も、愛してる」
そのまま背伸びをして、ユリアの唇に触れた。
短い口づけだった。
けれど、互いに慣れた距離だった。
初めてではない。
秘密でもない。
ただ、誰にも見せないだけ。
二人はずっと前から、そうやって生きてきた。
聖女と護衛として。
そして、恋人として。
窓の外では、夕暮れの光が神殿の白い壁を淡く染めている。
遠くで鐘が鳴った。
明日もまた、セレスは聖女として人々の前に立つだろう。
泣かない聖女として。
優しく、気高く、強い人として。
けれど今だけは違う。
今だけは、ユリアの腕の中で目を閉じている。
ユリアはその重みを抱きしめながら、静かに思った。
この人を守る。
世界が彼女に何を求めても。
神が彼女を何に選んだのだとしても。
オレだけは、セレスを聖女としてではなく、セレスとして守る。
セレスが眠りに落ちかけた頃、彼女の指がユリアの袖を掴んだ。
「ユリア」
「ん」
「離れないで」
「離れない」
「絶対?」
「ああ」
ユリアは答えた。
「絶対だ」
その言葉を聞いて、セレスは安心したように眠った。
ユリアはしばらく動かなかった。
腕の中の温もりを確かめるように、ただじっとしていた。
聖女セレスは、泣かない。
人々はそう信じている。
けれどユリアは知っている。
セレスは泣く。
大きく笑う。
甘える。
怖がる。
そして誰よりも強くあろうとする。
そのすべてを知っているのは、自分だけ。




