名前
セレスは、自分の名前が好きだった。
聖女になる前から。
両親が付けてくれた名前だから。
響きも綺麗だと思う。
だから特に不満はない。
ないのだが。
「聖女様」
神官が呼ぶ。
「聖女様」
侍女が呼ぶ。
「聖女様」
人々が呼ぶ。
朝から晩まで。
ずっと。
ずっと。
ずっとだ。
「私、名前あったよね」
ぽつりと呟いた。
「あるな」
向かいに座るユリアが答える。
「よかった」
「なくなってないぞ」
「最近ちょっと自信なくなってきた」
セレスは机に突っ伏した。
今日だけで何回『聖女様』と呼ばれたのだろう。
百回くらいかもしれない。
「聖女様ー」
セレスが自分で言う。
「聖女様ー」
もう一回。
「聖女様ー」
三回目。
「うるさい」
ユリアが言った。
当然だった。
セレスは顔を上げる。
「だって」
「なんだ」
「誰も名前で呼ばない」
少しだけ不満そうだった。
ユリアは考える。
確かにそうかもしれない。
神殿では聖女様。
街では聖女様。
どこへ行っても聖女様。
セレスという名前を呼ぶ人間は少ない。
「オレは呼んでる」
「そうだけど」
セレスは少し笑う。
「ユリアは特別だから」
さらりと言う。
ユリアは聞かなかったことにした。
反応すると面倒だからだ。
「ねえ」
「なんだ」
「呼んで」
「何を」
「名前」
ユリアは黙る。
嫌な予感しかしない。
「セレス」
「もう一回」
「嫌だ」
「なんで」
「呼んだ」
「一回だけ」
「十分だ」
セレスは頬を膨らませた。
「ケチ」
「そうかもな」
「もう一回」
「嫌だ」
「ユリア」
「嫌だ」
押し問答が始まる。
いつものことだった。
数分後。
折れたのはユリアだった。
これもいつものことだった。
「セレス」
「うん」
「満足か」
「もう一回」
「調子に乗るな」
セレスは吹き出した。
楽しそうだった。
本当に。
「ユリアはさ」
「なんだ」
「私の名前呼ぶ時、優しいよね」
不意打ちだった。
ユリアが固まる。
「そうか?」
「うん」
セレスは頷く。
「他の人と違う」
「気のせいだ」
「違う」
即答だった。
「ちゃんと分かる」
セレスは嬉しそうだった。
ユリアは少し困る。
そんなつもりはない。
いや。
たぶんある。
でも自覚はあまりなかった。
「ユリア」
「なんだ」
「私はね」
セレスは少し考える。
そして。
「ユリアに名前呼ばれるの好き」
そう言った。
静かな声だった。
でも嘘はない。
ユリアは視線を逸らした。
こういう時、本当に困る。
「反応薄い」
「考えてる」
「何を」
「どう返すか」
セレスは笑う。
それだけで十分だった。
「じゃあ私も言う」
「何を」
「ユリア」
名前を呼ぶ。
ただそれだけ。
なのに少し嬉しそうだった。
「ユリア」
もう一回。
「ユリア」
三回目。
「呼びすぎだ」
「好きだから」
「理由になってない」
「私の中ではなってる」
どこかで聞いたような台詞だった。
ユリアはため息を吐く。
「真似するな」
「うふふ」
セレスは楽しそうに笑った。
窓の外では風が吹いている。
穏やかな午後だった。
「ねえ」
「なんだ」
「もう一回」
「何がだ」
「名前」
ユリアはしばらく黙った。
断ろうと思った。
思ったのだが。
期待した顔で見られている。
だから。
「セレス」
呼んだ。
セレスが笑う。
「うん」
嬉しそうに。
満足そうに。
それを見ていると。
まあ、たまにはいいかと思った。
少なくとも。
セレスがこんな顔をするなら。
名前を呼ぶくらい安いものだった。




