最期の日
「この部屋は私の部屋です」
その言葉を口にした瞬間から。
記憶は止まらなかった。
鏡台へ手をついたまま、セリアは荒い呼吸を繰り返す。
知っている。
この部屋を。
この机を。
この本棚を。
ここで過ごした。
ここで笑った。
ここで生きていた。
全部。
私の記憶だ。
「セリア」
ユリアの声が聞こえる。
その声に胸の奥が強く痛んだ。
違う。違わない。
私はこの声を知っている。
誰よりも。
何よりも。
大切だった声だ。
視界が揺れる。
次の瞬間。
景色が変わった。
◇
国心環の間。
神官長。
ユリア。
そして私。
重い沈黙が流れている。
灰色に濁った国心環。
もう時間はない。
それは誰の目にも明らかだった。
私は知っている。
この日のことを。
この日の結末を。
『ありがとうございました』
神官長へ頭を下げる。
感謝していた。
本当に。
十五歳の頃からずっと。
『ユリア』
名前を呼ぶ。
水色の髪。
泣きそうな顔。
見たことのない表情。
『まだ間に合う』
掠れた声。
『まだ間に合う』
同じ言葉を繰り返していた。
知っている。
無理だと分かっているのに。
それでも諦められなかった。
私も同じだった。
本当は。
死にたくなかった。
◇
セリアの身体が震える。
「っ……」
苦しい。
胸が痛い。
だが記憶は止まらない。
◇
白い光。
無数の糸。
国中の願い。
悲しみ。
怒り。
後悔。
希望。
全部が流れ込んでくる。
苦しい。
息ができない。
それでも。
手だけは離さなかった。
国心環は浄化されていく。
少しずつ。
確実に。
白を取り戻していく。
そして。
『見える』
ユリアの声。
『白い光が……』
私は笑った。
嬉しかった。
最後に。
同じ景色を見られたことが。
本当に嬉しかった。
◇
さらに記憶が流れ込む。
身体が限界へ近付いていく。
赤い痕。
痛み。
恐怖。
そして。
終わり。
国心環が完全な白を取り戻す。
何百年分もの穢れが消える。
その代わり。
私の身体から力が抜ける。
『セレス!』
抱き止められる。
温かい腕。
大好きな人。
◇
セリアの頬を涙が伝う。
知っている。
この続きも。
全部。
知っている。
◇
『終わったね』
『ああ』
震える声。
そして。
張り詰めていたものが切れた。
『嫌だ……』
涙が溢れる。
『死にたくない』
声が震える。
『もっと生きたい』
本当は怖かった。
ずっと。
ずっと怖かった。
『来年も』
『再来年も』
『もっとずっと……』
言葉にならない。
『一緒にいたい』
それが本音だった。
聖女じゃない。
ただのセレスの願い。
◇
「……っ」
セリアは膝をついた。
涙が止まらない。
胸が苦しい。
息ができない。
あまりにも悲しくて。
あまりにも愛しくて。
◇
『愛してる』
『オレもだ』
唇が触れる。
短く。
優しく。
別れを惜しむように。
そして。
離れる。
◇
それが最後だった。
「ごめん……」
ぽつりと零れた。
セリア自身も気付かないうちに。
「ごめん……」
震える声。
十五年間。
残してしまった。
一人にしてしまった。
その後悔だけが胸に溢れる。
「ユリア」
ゆっくり顔を上げる。
涙で滲む視界の向こう。
そこにいる人を見る。
ずっと会いたかった人を。
「ごめん」
もう一度言う。
そして。
震える声で続けた。
「思い出した」
息を呑む音が聞こえた。
ユリアだった。
セリアは泣きながら笑う。
十五年前と同じように。
「私……セレスだ」
静かな部屋に。
その言葉だけが落ちた。
神官長は目を閉じる。
長かった。
本当に長かった。
十五年。
ようやくこの日が来た。
神官長は静かに一礼する。
「……おかえりなさいませ」
一度言葉が途切れる。
そして。
「セレス様」
セリアの目から再び涙が零れた。
「ただいま戻りました」
神官長は微笑む。
どこか安心したように。
肩の荷が下りたように。
そしてユリアへ視線を向けた。
何も言わない。
言う必要もなかった。
十五年間待ち続けたのは自分ではないのだから。
「少し席を外します」
そう言って扉へ向かう。
部屋を出る直前。
「ごゆっくり」
穏やかな声だけを残し。
神官長は静かに部屋を後にした。
扉が閉まる。
部屋には。
二人だけが残った。




