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くう、と情けなく鳴る腹の虫が、一際大きく居心地の悪い室内へと落ちる。
こっそり男を伺い見ても、相変わらずの無反応を貫いていた。
完全無視、というのも酷く辛い。凛子はじっと刻計だけを見つめている。白黒ライン比は変化しているのだろうか。先程から殆ど変わっていない様にも見えた。
扉をノックする音と共に、青年騎士の一人が入室する。
どこか見覚えのあるその顔は、昼前に荷物運びを手伝ってくれた青年の一人だった。だがしかし、彼はちらりともこちらに視線を寄越さないまま、上官と二言三言会話をし、何かの包みを凛子の目の前、刻計の脇に置くと、退室した。
「さっさと、腹の虫を慰めてやれ」
ぞんざいに男――シェイル――が、包みを顎でしゃくる。そして立ち上がると、備え付けられた棚からティーセットを取り出し、手早く茶を淹れると、包みの横へと置く。陶器のカップから仄かに上がる湯気を凝視したまま微動だにしない凛子に「早く食え」と言葉を続けた。
「あ、りがとうございます……」
ご丁寧にも部屋の主が、手ずから淹れてくれた茶に、手を伸ばした。
温かい液体が、じわりと喉に浸透する。緊張感からなのか、想像以上に口の中が乾いていた。余所行きの顔を張り付けたまま、包みにも手を伸ばす。まだ少し暖かい。大きな葉に包まれているクレープ状の携帯食は、こちらの世界の屋台などでもよく見る定番のものだ。
馴染み深い味のそれを、ちまちまもそもそと齧っていると、斜め横あたりにあった椅子が引かれ、カップを手にしたシェイルが座る。いちいちシェイルのとる行動に、びくびくしている自分に、凛子は心の内で、どうしてこんな事になってしまったんだろう、と幾度目かになる疑問を繰り返した。
室内は驚くほど静まり返っていた。
騎士達の午後の鍛錬の掛け声も遠く、この空間まで殆ど届かない。
横からは、ぴたり、と視線が自分へと当てられている。
「あの……見られていると、とても食べづらいんですが」
小さな反論の声には「いいから早くしろ」と、組んでいた長い足を解き、乱暴な様子で足を投げ出す事で返された。威圧感が、右半分の肌凡てに突き刺さるようだ。追い詰められた窮鼠とは、このような心境になるのかもしれない。言葉で何かを直接的に責め立てられる方が、まだマシである。
クレープ生地に包まれている卵がはみ出しそうになるのを、なんとか舌先で押し込みつつ、無言で頬張る。不思議な事にあまり味がしない。こんなに飲み込みにくい物だっただろうか、と首を傾げつつ、お茶で胃の奥へと無理やり流し込んだ。
凛子が卵とベーコンのクレープの全型をなんとか処理し終えた頃、刻計のラインが間もなく、丁度の比率へ届こうとしていた。
シェイルが凛子に、カード型の金属板を無言で手渡す。
凛子は観念して、内ポケットに忍ばせている同種の金属のペンを取り出すと、件の術具同様にラストゥーリャの魔力が込められている鉱輝石を握りこみながら、魔術具に文字を走らせはじめた。慣れたはずの動作なのにペン先が震える。
現在時刻。午前の行程記録。午後の予定。
少し迷いながら現状も追記し、最後に自分の名前を。
金属板の上に透明の文字で刻まれていたそれらは、この術具の相手方が同時に使用していた場合効果を発動する。す、と仄かに光り文字が浮かび上がるとそのまま消えた。通常ならば、凛子が記録を転送し終えるとすぐに『了解』という文字が返ってくるのだが、無反応である。
何故だ。いや、確かに反応しづらい内容ではあるが。シェイルの目の前でこれらの魔術具をきちんと使用できる事が証明出来なければ、不味いような気がする。
凛子を査問しているであろうこの部屋の主の視線は、凛子の手元を注視していたようで、探るように彼を見ている自分には気が付いていなかった。
「なるほど、共通文字は書けるのだな」
「! はい!」
不意に落ちた声に、必要以上に揺れた。
「神聖文字は?」
「少しだけ……。目下のところ勉強中です」
「なるほど」
男が納得したように顎に手を当てた瞬間、魔術具に返答が届いた。
『今、王国軍本部に居るという事ですか?』
このような答えが今まで帰ってきたことは無い。
指示がある場合は、もっと的確な文字列が並ぶ。例えば天文院執務室の本棚に、気候変遷の年間記録があるから、それを図書院に保管されてある過去記録と照合し、自分が戻るまでに目立つ箇所を収集しておく事、等。
ラストゥーリャへの答え方に躊躇しているうちに、シェイルの長い指が凛子の手元からペンと魔術具を取り上げた。唐突な行動に、凛子は反応も出来なかった。
術具に滑るようにペンを走らせながら、質問を飛ばしてくる。
「計算は?」
その質問の意図がわからない。
「出来ますけど……」
「義倉二五〇にそれぞれ二千袋ずつの小麦が保管されている場合、合計は?」
「えっと……五〇万?」
「それの四割を使用すると残りは?」
「ん――――三〇万」
細かい数字を暗算するのは、流石に自信ないが、末尾の桁数が0ならそれほど難しい問題ではない。
男は、正解だといった風に頷き、術具を卓上に放る。
『どういう事でしょうか!? 急すぎます! 順序と正式な手続きが』
すこし乱れた文字が金属板に浮かび上がった。
それを胡乱げに見たシェイルは「相変わらず細かいな、ヤツは」と鼻で笑い立ち上がると、執務机から真白な紙を一枚取り上げ、凛子に寄越した。
「下部に記名を」と、ご丁寧に墨壺と羽ペンも並べられる。
「早くしろ」
指先で、急かすようにとんとんと紙を叩く。
「今のおまえが最大限に書ける美しい文字を披露してみろ。術具に書くよりは書きやすいだろう?」
お世辞にも、凛子の書く文字は美しいとは言えない。綴り記号や合字も合わさったこの世界の共通文字は、非常に書き難い。しかもそれらの殆どが筆記なのだ。挑発するような言いように、査問は続いているぞ、と迂遠に告げられているようだった。
なんとか、書き上げた文字は、我ながら頑張った方だと思う。
シェイルはあっさりと紙を取り上げ「リィン・カミィーヤ。まあ見れない文字ではないな」と、感想を漏らす。そしてこれ以上話はもう無い、といった様子で執務机に戻ると、凛子には目もくれず積み上げられていた書類を捌き始めた。
骨ばった手を胡乱に見つめ返していると「用事は済んだから、さっさと戻れ」と、低い声が落ちる。しっしと追いやるように動かされたその手に、凛子はやっとの思いで微妙な笑みを張り付けると、近来稀に見る、最低最悪な空間を後にした。




