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「あ、えっと、あ……」
視線を泳がせ、口をぱくぱくとさせる。
思考は混迷を極め、言葉を紡ごうとしても上手くいかない。
実に数か月ぶりに目にするその男からは、何の感情も伺えなかった。
青灰の瞳と視線が絡まる。ぎゅっと心臓を鷲掴みにされたような感覚。悪戯が見つかってしまった子供の様に、凛子は竦む。
視線が絡まっていたのは、僅かの間にも関わらず、凛子の世界からはあらゆるものの時が止まる。深いところに沈めた記憶が、ゆらり、と這い出して来る。今すぐこの場から背を向け、走り去りたい気持ちになるが、そうも行かず、言葉を探しながら目の前にいる男の軍服の布地を見、それから視線を落とした。
大きな溜息が、凛子の耳を掠めた。
「昼前に……」
「え!?」
回廊に動揺を隠せない凛子の声が響いた。
見上げると、目の前の男はやや呆れたように片眉をあげ、言葉を続ける。
「俺の部下と行き逢わなかったか?」
と、まさに凛子が今探していた失せ物を手にする。
「あ! それ」
思わず手を伸ばすと、男の手が凛子の届かない高さにあがる。
凛子の指先は虚しく空を切った。
男がそのような行動を自分に対して取るとは想像もしていなかった為、凛子は驚愕を唇に乗せようとした形で、結果的に中途半端に開く。
「管理がなっていない」
次に落ちてきた声は、ごく静かな物だった。
男の目には、相変わらず感情が見えない。
途端になぜか、泣きたい気持ちになる。
今の彼に良い感情を持たれていないのは、頭では理解していた。が、このような場所で、この男と実際に向き合う場面など、予測も想像もしていなかった。予測していたならどうかなるという訳でもないが。あまりにも突然過ぎて、どういった態度をとれば良いのか、正解がわからない。
凛子はざわつく心を落ち着かせるよう、小さく呼吸する
目の前に居るのは、王族且つこの国の将軍。
凛子自身は、身分制度に馴染みがないが、この世界では絶対的なものの一つでもある。王宮内で叩頭するような習慣が元々ないのがせめてもの救いだろう。
「――申し訳ございません」
探しに探して、やっと出てきた言葉は謝罪のみ。
頭を下げた凛子に対し、男は鼻で笑ったようだった。
「気をつけろ」
カード状の魔術具が、凛子の顔の前に差し出される。
今度こそ、それをしっかり受け取り「ありがとうございました……」と続け、頭を低くしたままの体勢で、背を向けようとそっと爪先をずらすと、再び横から声がかかる。
「使いこなせるのか、それを」
精神的な閉塞空間となり果てたこの状況から、開放して欲しい。
凛子の行く手を遮る男が、嫌いなわけでは無い。
単純に彼と向き合うだけの余裕が無かった。
だいたい、この男は自分の事を刺客か間諜の類だと思っている筈である。ラストゥーリャの名を借り受ける事になった時も、最後まで反対の意を唱えていた。叡智の塔主を篭絡した悪女と思われている。流石にこの数か月を経て、凛子とラストゥーリャの間に何も無い事は、耳に入っているだろうが。
「……一応、できます」
「やってみろ」
渋々答えた刹那に、すぐさま返事を被せられる。
顎で魔術具を指し、またもや男の体が正面へと来た。
勘弁してほしい。
何か、良い答え方は無いだろうか。と、視線を横に向けると、柱の水時計が視界に映りこんだ。定刻まではまだ半刻ある。これは言い訳になるだろう。双方が同時刻に魔術具を使用しなければ、情報転送用のこの術具は効果を発動しない。
「定時まで、半刻近くもあるので、今使用しても意味がありません」
「ならば、待ってやろう。三の刻だな。確か許容誤差もあった筈だが」
「えええ……」
「俺の前で証明しろ」
もう嫌だ本当に。
言い返したい。
けれど、できない相談である。
こんなんじゃ無かったのにな、と項垂れた瞬間、凛子の腹の虫が鳴いた。慌てて抑えるも、情けないその音が、消音されるわけでなかった。
ほんとうに、泣きたい。
いっそ失笑でもいいから反応してくれればいいのに、男は「ついてこい」と踵を返す。
凛子は、覚悟を決められないまま、その広い背中をとぼとぼとした様子で追う。
連行されている気分である。
回廊に、靴音が虚しく響く。
食堂のある階下へと続く大階段付近からの匂いが凛子の胃を刺激するが、虚しくそこを通り過ぎ、先へ。そして王国軍の本部へと続く渡り廊下へ差し掛かるが、男の歩みは止まらない。
通路の脇へと避けた何人かの青年騎士や少年の域を出ていない見習いの子が、将軍に敬礼をし、その後ろへと続く項垂れた官吏をチラリと見遣る。
黙したままの男の後に続いて幾つかの階段を上がり、一つの扉の前までたどり着く。華美な装飾は施されてはいないが、年代物の重たそうな色合いをしている。開かれた室内は、奥に大きな執務机があり、手前には応接椅子と平卓。
促された凛子は椅子の一つに浅く腰かけた。部屋の主はすぐ横にある装飾の無い扉から隣室へ向かってしまい、主の居ない部屋に一人残され、凛子はいよいよ途方に暮れる。
考えるまでも無く、ここは彼の執務室なのだろう。ラストゥーリャの執務室も、このような配置だった。この国最強を誇る剣士が主の部屋は、ある意味でこの国一安全な場なのかもしれないが、疑っている人間を置き去りにするのは無防備すぎないだろうか。
凛子は魔術具をぎゅっと握りしめながら、この良く判らない状況が早く終わればいいのに、と祈りながら、男の消えた扉を見つめていた。
と、すぐに扉が再び開かれて男が姿を現した為、必要以上に驚き体を揺らしてしまった。青灰の瞳と視線が合うが、反射的に反らし、結局行き場のない視線は手の中にある魔術具へとおさめる。
卓の上に、刻計が置かれた。細長い。いつか見せてもらった事がある。
黒色のラインより白色のラインの方が、まだ長かった。




