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歪んだ愛  作者: S.S
第二章 観察と境界線の崩壊

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第9話:蠢く影

午後六時三十分の渋谷駅東口は、吐き気がするほどの熱気と雑踏に包まれていた。改札から吐き出される無数の人々、けたたましく鳴り響く街頭ビジョンの広告音、そして、アスファルトから立ち上る湿った熱気。その混沌とした人の波の中で、相原美咲は周囲に完全に溶け込んでいた。

彼女は会社を出る直前、オフィスの女子トイレで地味なオフィスカジュアルのジャケットを脱ぎ、あらかじめバッグに忍ばせていた暗いネイビーのパーカーに着替えていた。髪もいつものハーフアップをほどき、深めに被った黒いキャップの中に押し込んでいる。さらに、顔の半分を覆うような大きなマスク。会社での「従順で優秀な事務職の後輩」の面影は、どこにもなかった。

(大輔さん、どこ……? 私の、大輔さん……)

美咲は、繋ぎ合わせたメモに書かれていた『渋谷駅東口』の交差点を見下ろせる、歩道橋の上の特等席を陣取っていた。

視線は、一点の曇りもなく、改札から出てくる人々の頭頂部へと向けられている。人間にはそれぞれ固有の歩き方、肩の揺れ方、頭の角度がある。美咲の脳内には、高橋大輔の歩行データがミリ単位で記憶されていた。

「……いた」

美咲の瞳が、獲物を見つけた蛇のように妖しく見開かれた。

雑踏の向こうから、長身でスタイルの良い男性が歩いてくる。高橋だ。彼は会社を出た時と同じ、濃いグレーのスーツを着ていたが、その足取りはいつもよりずっと重く、視線は地面に落とされていた。誰が見ても、精神的に追い詰められている男の背中だった。

美咲の心臓がトクンと跳ね、心地よい高揚感が全身を駆け巡る。彼女は素早く歩み寄るのではなく、高橋の後ろ約十メートルの距離を保ちながら、音もなく歩き始めた。彼が右へ曲がれば美咲も右へ曲がり、彼が信号で立ち止まれば、美咲も周囲のスマートフォンをいじる若者のフリをして足を止める。

高橋は一度も後ろを振り返らなかった。都会の雑踏という巨大な匿名性の檻の中にいる安心感からか、自分が誰かに 尾行されているなどとは、微塵も疑っていないようだった。

高橋が向かったのは、駅から少し離れた、雑居ビルの四階にある小さなクリニックだった。ビルの入り口にある看板には『心療内科・メンタルクリニック』と書かれていた。

美咲はビルの影に身を隠し、その看板を凝視した。

(心療内科……? 大輔さん、やっぱり心を病んでしまっているんだ。あの吉川香織っていう女のせいで、そこまで追い詰められて……!)

美咲の胸の中で、高橋への歪んだ同情と、香織への激しい怒りが同時に沸き上がった。

高橋がカウンセリングを受けている間、美咲はビルの向かい側にある細い路地で、じっと待ち続けた。時間は一時間近く経過していたが、美咲にとっては一秒のように感じられた。大輔さんのために時間を使うこと。それ自体が、彼女にとって至上の幸福だったからだ。

午後七時四十分。ビルの自動ドアが開き、高橋が再び姿を現した。

彼の表情は、入る前よりも少しだけ落ち着いているように見えたが、手には調剤薬局の小さな袋が握られていた。中にはおそらく、睡眠導入剤か抗不安薬が入っているのだろう。

高橋はスマートフォンを取り出すと、誰かに電話をかけ始めた。

美咲は周囲の雑音に紛れながら、彼との距離を五メートルにまで縮めた。耳の神経を極限まですり減らし、彼の口元から漏れる声を拾おうとする。

「あ、香織? 僕だけど……。うん、今クリニックが終わったところ。……先生は、少し休養をとった方がいいって。……え? どうしてそんなこと言うんだよ。僕は君のために……」

高橋の声が、次第に悲痛なものへと変わっていく。どうやら、電話の向こうの香織は、彼の心配を拒絶しているようだった。

「わかった……。今夜はもう、会わない方がいいんだね。……うん、おやすみ」

高橋は力なくスマートフォンを耳から離し、画面を見つめたまま、しばらくその場に立ち尽くしていた。そして、大きく肩を落とすと、トボトボと駅の方向へと歩き出した。香織との関係は、美咲の計算通り、完全に崩壊寸前まで来ている。

その様子を背後から見つめながら、美咲はマスクの下で、抑えきれない笑みを浮かべていた。

(可哀想な大輔さん。でも、もう大丈夫ですよ。あの女はあなたを理解してくれないけれど、私だけはあなたの苦しみを全部知っているわ。そのお薬だって、私が毎日優しく飲ませてあげる。早く、私だけのものになって……)

高橋の後を追いながら、美咲の頭の中には、すでに次の計画が浮かんでいた。

会社の中での嫌がらせ、外での尾行。これらはすべて、彼を孤独にし、最終的に自分の腕の中に引きずり込むための前哨戦に過ぎない。

渋谷のきらびやかなネオンが、夜の街を徘徊する二人の影を怪しく照らしていた。一人は、見えない恐怖に怯え、薬に頼らざるを得なくなった男。そしてもう一人は、その男のすべてを支配しようと、暗闇からじっと機会を伺う女。二人の距離は、会社の中よりもずっと、精神的に近づきつつあると、美咲だけが確信していた。


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