第10話:終わりの鐘
渋谷での尾行からさらに三日後。金曜日のオフィスの空気は、かつての軽やかさを完全に失い、澱んだ梅雨の雨雲のように重苦しく垂れ込めていた。
吉川香織は、ついに今週の水曜日から「体調不良」を理由に会社を無断欠勤していた。社内では、彼女のロッカーに投げ込まれたあの不気味な手紙の一件が尾を引き、「ストーカーは社内の人間に違いない」という噂が亡霊のように這い回っている。誰もが隣の席の同僚を疑いの目で見つめ、普段の雑談さえも極端に少なくなっていた。
そんな中、相原美咲だけは、静水のように穏やかな表情でルーティンワークをこなしていた。彼女の指先がキーボードを叩く規則正しい音だけが、自分のデスクの周囲に小さな結界を作っているかのようだった。
美咲の視線は、キーボードを見つめながらも、斜め前方に座る高橋大輔の背中に固定されていた。
高橋は、ここ数日で劇的に痩せていた。仕立ての良いはずのスーツの肩回りが、心なしかダボついて見える。心療内科で処方されたであろう薬の影響か、時折、パソコンの画面を見つめたまま数十秒間も動きを止め、深い、深い、絶望的な溜め息をつくのだった。
(可哀想な大輔さん。あんな女と関わったせいで、心も体もボロボロにされて……。でも、もうすぐ終わるわ。今夜、すべてを終わらせてあげる)
美咲は、引き出しの奥に隠したスマートフォンで、香織の非公開アカウントのステータスをチェックした。香織は昨夜、狂ったように短い言葉を連投していた。
『もう限界。誰も信じられない。彼と一緒にいると頭がおかしくなりそう。別れたい。全部捨てて逃げ出したい』
引き金は、すでに引き絞られている。あとは、美咲がほんの少し指を動かすだけで、二人の関係という砂の城は木端微塵に崩壊する。
午後五時四十五分。定時を目前にしたオフィスで、高橋がふらりと席を立ち、お手洗いへと向かった。美咲はその瞬間を見逃さなかった。高橋は、自分のスマートフォンをデスクの上に置いたまま席を外したのだ。いつもなら肌身離さず持ち歩くはずの彼がそれを忘れるほど、注意力も判断力も低下している証拠だった。
美咲は素早く、しかし音を立てずに席を立った。手元には、確認用の書類を数枚抱えている。万が一、誰かに見られても「高橋先輩のデスクに資料を置きにいった」と言い訳ができるように。
高橋のデスクの前に立つ。周囲の社員は、自分の週末の予定や残業の処理に没頭しており、美咲の行動に気を留める者は一人もいなかった。
美咲は、高橋のスマートフォンの画面を覗き込んだ。ロックがかかっている。しかし、美咲の目的は彼の中身を見ることではなかった。彼女は自分のバッグから、あらかじめ用意していた「一枚のメモ用紙」を取り出し、高橋のスマートフォンの下に、わざと端が数ミリだけはみ出すように滑り込ませた。
そのメモには、美咲が自分の指紋がつかないよう細心の注意を払いながら、ネットカフェのプリンターで印刷した、ある短いテキストが書かれていた。
『大輔くんへ。もう、あなたと一緒にいるのは恐怖しかありません。ストーカーの犯人は、きっとあなたの身近な人です。私はもう耐えられません。別れてください。二度と連絡してこないで。 吉川香織』
香織の筆跡に似せた偽の別れの手紙。美咲は、香織の精神状態であれば、この程度の文面のメールを高橋に送りつけても全く不自然ではないと確信していた。そして何より、今の高橋には、これが本物かどうかを香織に直接電話して確かめるだけの、精神的な余力は残されていないはずだった。
美咲が自分の席に戻るとほぼ同時に、高橋が青白い顔をして戻ってきた。
彼は椅子に座り、無意識にスマートフォンを手に取った。その瞬間、下に敷かれていた白い紙の存在に気づく。
高橋の手が、ピクリと震えた。
彼がそのメモを取り上げ、書かれている内容を目で追っていくのを、美咲は自分の席から凝視していた。
高橋の顔から、完全に血の気が引いていくのが分かった。彼の大きな瞳が驚愕と絶望に見開かれ、唇が小刻みに震え始める。彼は何度もスマートフォンを操作し、香織に電話をかけようとした。しかし、美咲が事前に香織の精神を追い詰めておいたおかげで、香織のスマートフォンはすでに着信拒否か、電源が切られている状態だった。
「嘘だろ……香織、なんで……」
高橋の口から、掠れた、泣き出しそうな声が漏れた。彼は頭を抱え、デスクに突っ伏した。その背中は、あまりの絶望に小さく震えていた。
職場の同僚たちは、異変に気づきながらも、ここ最近の重苦しい空気のせいで、誰も彼に声をかけようとはしなかった。
ただ一人、相原美咲を除いては。
美咲はゆっくりと席を立ち、高橋のデスクへと歩み寄った。彼女の顔には、この世で最も優しく、最も慈愛に満ちた「聖母」のような笑顔が浮かんでいた。
「高橋先輩……大丈夫ですか? どこか、お体が悪いんじゃ……」
高橋はゆっくりと顔を上げた。その瞳には、涙がたまっていた。彼は目の前に立つ美咲を、まるで濁流の中で見つけた一本の命綱のように見つめた。
「相原、さん……。僕は、僕はどうすればいいんだ……」
「大丈夫ですよ、先輩。私、ずっとここにいますから。何があっても、私は先輩の味方です」
美咲はそう言って、高橋の震える肩に、今度は躊躇することなく、そっと温かい手を置いた。高橋はその手の温もりに縋るように、何度も深く、浅い呼吸を繰り返した。
二人の間を隔てていた「会社の先輩と後輩」という冷たい境界線が、この瞬間、完全に崩壊した。




