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歪んだ愛  作者: S.S
第二章 観察と境界線の崩壊

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第11話:空白の領域

吉川香織からの偽の「別れの手紙」によって、高橋大輔の世界は完全に崩壊した。

週が明けた月曜日、高橋は会社を休んだ。無断欠勤ではなかったが、朝一番に課長へ「体調不良のため、数日お休みをいただきたい」と、今にも消え入りそうな声で電話があったという。

営業部のフロアは、エースの不在によって朝からバタバタと慌ただしく動いていた。誰もが「例のストーカー騒ぎのせいだ」「高橋さんもついに限界がきたんだ」と噂し合い、腫れ物に触れるような空気で彼の空席を見つめていた。

その喧騒の中で、相原美咲だけは冷徹なまでの静けさを保っていた。

彼女は自分のデスクに座り、パソコンの画面に向かいながら、心の中で狂喜のダンスを踊っていた。高橋が会社に来ない。それはつまり、彼が今、誰の目にも触れない場所で、一人きりで傷つき、弱り切っているということを意味していた。

(大輔さん、今頃お部屋で泣いているのかしら。可哀想に……。でも、これでいいの。誰もいない暗闇の中で、私のことだけを考えてくれればいい)

美咲は引き出しの奥から、鍵付きの小さなノートを取り出した。会社での彼女の仕事ぶりは完璧だったが、その頭脳の半分は、常に高橋の「不在の空間」を支配するために使われていた。

彼女の手元には、先週の尾行で特定した心療内科のデータや、彼がこれまでに口にした断片的なプライベートの情報が並んでいる。しかし、美咲にとって致命的な「空白」が、まだ一つだけ残されていた。

それは、高橋の「自宅の正確な住所」だった。

会社の人事データにアクセスすれば一発で分かることだが、事務職の美咲には、社員の個人情報が保管されているセキュリティ領域へのアクセス権限は与えられていない。下手にシステムをハッキングしようとすれば、社内のIT管理部に検知され、これまでの完璧な仮面が剥がれてしまう危険があった。

「リスクは冒せない。だったら、別の方法で手に入れるだけ」

美咲はフッと不気味な笑みを浮かべ、席を立った。手には、営業部の書類がぎっしりと詰まった共有ファイルを持っている。

彼女が向かったのは、営業部の総務や雑務を一手に引き受けている、年配の女性社員、佐藤さんのデスクだった。佐藤さんは社内のあらゆる噂話が大好きで、お節介焼きな性格だった。美咲はこれまで、彼女に対して「気が利く可愛い後輩」として、こまめにstrお菓子を差し入れたり、愚痴を聞いたりして、確固たる信頼関係を築き上げていた。

「佐藤さん、お疲れ様です。あの、ちょっとご相談が……」

美咲は困り果てたような、今にも泣き出しそうな表情を作って佐藤さんに近づいた。

「あら、相原さん。どうしたの? そんな暗い顔をして」

「実は……高橋先輩のことなんです。今朝、課長にお休みの連絡があったって聞いて、すごく心配で。先週も、私の前で本当に辛そうにされていて……」

美咲は声を少し震わせ、ハンカチで目元を拭う仕草をした。

「そうなのよ。高橋くん、あんなに優秀なのに、変なストーカーに目をつけられて可哀想に。吉川さんの件もあって、心身ともにボロボロなんでしょうね」

佐藤さんは同情を寄せるように溜め息をついた。美咲はここぞとばかりに、仕込んできた罠の言葉を口にした。

「はい……。それで、営業部の皆でお見舞いの品というか、簡単なメッセージカードを贈ろうっていう話が出ているんです。私がまとめて、ご自宅のポストにでもそっと届けてこようかと思っているんですが……。ただ、私、先輩のご住所を知らなくて。佐藤さん、もしよろしければ、お見舞いの送付先として、高橋先輩のご住所を教えていただくことはできませんか?」

美咲の瞳は、純粋な善意と先輩を思いやる優しさに満ち溢れているように見えた。佐藤さんは一瞬、「個人情報だしなぁ」と躊躇する素振りを見せたが、相手がいつも真面目で信頼できる相原美咲であること、そして「部内の皆のため」という大義名分があることで、すぐに警戒心を解いた。

「そうね……。相原さんなら安心だし、高橋くんも皆からのメッセージがあれば少しは元気が出るかもしれないわね。ちょっと待って、今調べてあげる」

佐藤さんはパソコンの画面を操作し、営業部の緊急連絡先リストを開いた。美咲の心臓が、ドクドクと激しく波打つ。画面を覗き込みたい衝動を必死に抑え、従順な後輩の姿勢のまま待った。

「ええと、高橋くんの住所は……世田谷区代沢の……」

佐藤さんがメモ用紙にサラサラと住所を書き写し、美咲に手渡した。

「はい、これね。相原さん、お手数だけどよろしく頼むわね。高橋くんに、皆心配してるって伝えて」

「ありがとうございます、佐藤さん! 必ず、大切にお届けします」

美咲はメモを受け取り、深く頭を下げた。

自分の席に戻るまでの短い廊下で、美咲は手の中のメモを凝視した。そこには、高橋大輔が毎日眠り、目覚め、生活しているプライベートな城の場所が、完璧に記されていた。

『世田谷区代沢〇丁目〇番地〇号 メゾン・ド・ラフィール302号室』

「見つけた……。大輔さんの、お家」

美咲の指先が、歓喜のあまり小刻みに震えた。

会社の中という檻を飛び出し、彼のプライベートな領域へと、彼女の触手が完全に届いた瞬間だった。

その日の夜、美咲は定時になると同時に、誰よりも早く会社を後にした。

向かう先は、自分の家ではない。もちろん、佐藤さんに嘘をついた「お見舞いのカード」など持っていない。彼女のバッグの中にあるのは、新しく購入した高性能のボイスレコーダーと、小型の望遠レンズがついたデジタルカメラだった。

美咲は渋谷駅から井の頭線に乗り換え、高橋の住む街へと向かった。

電車の窓に映る自分の顔は、会社での大人しい後輩のそれではなく、完全に獲物を追い詰める狂気の「捕食者」の顔をしていた。第2章『観察と境界線の崩壊』の幕が開き、美咲の異常な行動は、高橋のプライベートを完全に侵食し始めるのだった。

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