第12話:光の城
小田急線と井の頭線が交わる下北沢駅から、閑静な住宅街へと続く坂道を十五分ほど歩いた場所に、そのマンションは佇んでいた。
世田谷区代沢。都心の喧騒から程よく離れ、緑豊かな遊歩道や洗練された低層住宅が立ち並ぶ、一等地である。相原美咲は、通りに面した街路樹の影に身を潜め、目的の建物をじっと見上げていた。
『メゾン・ド・ラフィール』
コンクリート打ちっぱなしの外壁に、スタイリッシュな間接照明がエントランスを照らす、いかにも高橋大輔が好みそうなデザイナーズマンションだった。美咲は深めに被った黒いキャップの庇をさらに下げ、手元の手帳に視線を落とした。
「三階……三〇二号室……」
エントランスのインターホンパネルの横にある、入居者一覧のプレートを確認する。そこには、整ったフォントで『TAKAHASHI』の文字が刻まれていた。美咲はその文字を指先でなぞりたい衝動を必死に抑え、建物の外周へと回り込んだ。
建物の裏手は、小さな公園に面していた。鬱蒼と茂る木々のおかげで、人目を気にせずにマンションのベランダ側を観察できる絶好のポイントだった。美咲は暗がりに腰を下ろし、バッグから小型の双眼鏡を取り出した。
レンズの焦点を合わせると、三階の角部屋――三〇二号室のベランダが鮮明に視界に飛び込んできた。
カーテンは厚手の遮光カーテンが固く閉め切られている。しかし、その隙間から、微かに温かみのあるオレンジ色の電球色の光が漏れ聞こえていた。
「大輔さん……そこにいるのね」
美咲の胸の奥が、熱い塊で満たされていく。会社というパブリックな場所ではなく、彼が最も無防備に、最も素の状態で存在するプライベートな空間。そのすぐ近くに自分が立っているという事実に、目眩がするほどの全能感を覚えていた。
美咲は双眼鏡を覗いたまま、彼の生活の「破片」を一つずつ網羅していくように観察を続けた。
ベランダに干されたままの洗濯物。そこには、彼がいつも会社に着てくる白いワイシャツと、ネイビーのチノパン、そして幾つかの下着が並んでいた。風に揺れる彼の衣服を見つめているだけで、美咲の鼻腔には、彼の部屋から漂ってくるであろう洗剤の匂いや、彼自身の体臭までもがリアルに蘇ってくるようだった。
(あのワイシャツは、私が明日アイロンをかけてあげたいな。下着も、私が洗って、綺麗に畳んで、引き出しに仕舞ってあげたい……)
美咲は手帳を取り出すと、街灯の微かな光を頼りに、観察記録を書き込み始めた。
『午後八時十五分。三〇二号室、点灯を確認。遮光カーテン(ベージュ色)。ベランダにワイシャツ三枚、靴下二足。外回りのゴミ箱は黒のプラスチック製――』
どれほど時間が経過しただろうか。美咲は一歩もその場から動かず、瞬きさえも惜しむように三〇二号室の窓を見つめ続けていた。時計の針が午後十時を回った頃、ベランダのサッシが静かに開く音が、夜の静寂に響いた。
美咲の心臓がドクン、と跳ね上がる。慌てて双眼鏡を構え直した。
カーテンの隙間から姿を現したのは、スウェット姿の高橋大輔だった。
しかし、その姿は美咲がよく知る「完璧な先輩」とは程遠いものだった。髪はボサボサに乱れ、顎には薄すらと無精髭が伸びている。いつもピンと伸びていた背筋は丸まり、何かに怯えるように周囲の暗闇をキョロキョロと見回していた。
高橋はベランダの柵に手をかけ、夜空を見上げながら、深く、重い溜め息をついた。その手には、会社を休む原因となった、あの心療内科の薬袋が握られているのが見えた。彼は袋から一錠の錠剤を取り出すと、水もなしに口に含み、無理やり喉へと飲み込んだ。
(可哀想な大輔さん……。あんな女のせいで、こんなにボロボロになって。でも、もうすぐよ。私がその苦しみを、全部取り除いてあげるからね)
高橋は数分間、夜の空気を吸ったあと、再び部屋の中へと消え、サッシが重く閉まった。
それからさらに一時間が経過した午後十一時過ぎ、三〇二号室の明かりが、ふっと消灯した。彼が眠りについたのだ。
美咲はゆっくりと立ち上がり、自分の体のこわばりをほぐした。一晩中冷たい地面にしゃがみ込んでいたせいで、足の感覚はほとんどなくなっていたが、不思議と疲れは一切感じなかった。
彼女はマンションの正面に回り、エントランスの横にあるゴミ集積所へと目を向けた。
そこには、明朝の回収を待つ、いくつかの指定ゴミ袋が置かれていた。美咲の瞳に、新たな、そして決定的な狂気の光が宿る。
(大輔さんのゴミ……。彼が何を食べて、どんな生活をしているのか、もっと知りたい)
美咲は周囲に誰もいないことを確認すると、音を立てずにゴミ集積所へと近づいていった。高橋大輔のすべてを収集し、彼の領域を完全に浸食するための、さらなる一歩が、代沢の静かな夜の底で実行されようとしていた。




