第8話:浸食される領域
翌朝、美咲はいつも通りの午前七時五十五分にフロアに現れた高橋を、いつもの完璧な笑顔で迎えた。
高橋の疲弊はピークに達しているようだった。ネクタイの結び目はわずかに歪み、いつもピシッとアイロンがかけられていたシャツの袖口には、小さなシワが寄っている。
「高橋先輩、おはようございます。今日も少しお疲れのようですね。これ、どうぞ」
美咲はあらかじめ用意していた、栄養ドリンクと温かいコーヒーをデスクに置いた。
「ああ……相原さん。おはよう。いつもすまないね、本当に気が利くよ」
高橋は力なく笑い、栄養ドリンクを一気に飲み干した。その姿を見つめながら、美咲は自分のデスクに戻り、バッグの中から「あるもの」を取り出した。それは、彼女の私物である、小さな薄ピンク色のハンドクリームだった。
お昼休憩になり、フロアから人が少なくなったタイミングを見計らい、美咲は高橋のデスクへと近づいた。高橋は外回りの準備のため、席を外してロッカールームへ向かっている。
美咲は素早い動作で、高橋のペン立ての奥に、そのハンドクリームを滑り込ませた。
それは、男の一人暮らしのデスクには絶対に存在するはずのない、女性物の、それも甘いフローラルな香りがするアイテムだった。
(もし、あの女が万が一先輩のデスクにやってきたら、これを見てどう思うかしら? 私の匂いが、大輔さんのデスクを支配するの)
美咲の目的は、香織に対する無言の圧力をさらに強めることだった。高橋の身の回りに、自分以外の「女の気配」をわざと残すことで、香織の被害妄想をさらに爆発させようという冷酷な計算だった。
それだけではなかった。美咲の行動は、さらに大胆さを増していく。
その日の午後、営業部のシュレッダーのゴミを回収する係が美咲に回ってきた。美咲は、高橋が午前中に細かくちぎってゴミ箱に捨てた、あるメモ用紙の切れ端をすべてピンセットで拾い集めていた。
それは、高橋が個人的にメモしていたと思われる、彼の今週の「退勤後のプライベートな移動ルート」が書かれた紙だった。
『18:30 渋谷駅東口 〇〇クリニック』
『20:00 新宿 カフェで打ち合わせ』
美咲は給湯室の個室にこもり、バラバラになった紙の破片を、パズルのように丁寧にセロハンテープで繋ぎ合わせていった。
文字が浮かび上がるたびに、美咲の心臓はドクドクと歓喜に震えた。
「先輩、今夜は渋谷のクリニックに行くんだ……。体の調子が悪いのかな。心配だな。私が、ついていってあげなきゃ」
美咲は繋ぎ合わせたメモを自分のポケットに深く仕舞い込んだ。
高橋にとって、会社の中の相原美咲は、自分の仕事を完璧にサポートしてくれる無害な存在だった。だからこそ、彼は自分のデスクの上が少しずつ変化していることにも、自分の捨てたゴミが回収されていることにも、全く気づいていなかった。
午後六時。定時のチャイムが鳴ると、高橋は珍しく急いだ様子で荷物をまとめ、「お疲れ様」と言って足早にオフィスを出て行った。
美咲はその背中を見送りながら、静かに、しかし素早く自分のバッグを肩にかけた。
「相原さん、もう帰るの? いつもより早いね」
同僚の言葉に、美咲は振り返り、満面の笑みで答えた。
「はい、今夜はちょっと、外せない『大切な用事』がありまして。お先に失礼します!」
オフィスを出た美咲の足取りは、獲物を追う猟師のように正確で、冷酷だった。
高橋が向かった渋谷の街。その雑踏の中に、彼のストーカーとしての美咲の影が、ついに会社の一歩外側へと、音を立てて浸食を始めるのだった。




