第7話:深夜の対話
会社から支給されているノートパソコンを閉じ、相原美咲は深く長い息を吐き出した。時刻は午後十一時を回っている。静まり返ったワンルームマンションの部屋には、冷蔵庫が放つ低いブーンというモーター音だけが響いていた。
美咲は、会社のデスクから密かに持ち帰った高橋大輔のボールペンを、机の上にそっと置いた。
それは何の変哲もない、どこにでも売っている百円均一の黒いボールペンだ。グリップのゴムの部分は、彼が毎日強く握りしめていたせいで、心なしか少し擦り切れている。美咲はそのペンを恭しく両手で拾い上げると、そっと自分の唇に押し当てた。
冷たいプラスチックの感触。しかし、美咲の脳内では、それが高橋の温かい指先の皮膚そのものであるかのように変換されていた。
「大輔さん……今日もお疲れ様でした」
美咲は目を閉じ、ペン先を自分の頬、そして首筋へと滑らせていく。まるで彼に優しく愛撫されているかのような錯覚に身を委ね、小さく吐息を漏らした。
彼女の部屋の壁には、以前よりもさらに多くの高橋の写真がピンで留められていた。社内のイベントで偶然写り込んでいたもの、営業部の集合写真から彼の部分だけを限界まで引き伸ばして印刷したもの。それらの瞳がすべて、部屋の真ん中にいる美咲をじっと見つめている。
「あの女は、もうすぐいなくなるわ。そしたら、あなたの隣には私だけが残るの」
美咲は狂気的な笑みを浮かべながら、スマートフォンを手に取った。ここ数日間、高橋の恋人である吉川香織のSNSには、目に見えて変化が起きていた。
かつては華やかだったタイムラインは完全にストップし、代わりに非公開のアカウントで「誰かに見られている気がする」「もう会社に行きたくない」「彼と一緒にいるのが怖い」といった、精神的な崩壊を窺わせる短い呟きが、深夜に何度も投稿されては消されていた。
美咲が仕込んだあの「警告の封筒」は、香織の心を確実に蝕んでいた。そしてそれは、高橋との関係にも決定的な亀裂を生じさせている。二人がすれ違い、互いに疲れ果てていく様子を、美咲は特等席から眺めているような全能感で味わっていた。
しかし、美咲の欲求はそれでは満たされなかった。
彼が香織と別れるのは時間の問題だ。だが、その後に高橋が自分を選んでくれるという保証は、まだどこにもない。高橋にとって、自分はあくまでも「都合の良い、優秀な後輩」の枠を出ていないのだ。
(もっと、彼の生活に入り込まなくちゃ。彼が私なしでは生きていけないように、私の一部を彼の周囲に散りばめていくのよ)
美咲はベッドから起き上がり、部屋のクローゼットを開けた。そこには、会社に着ていくものとは明らかに違う、お洒落で少し大人びた服が何着も掛けられていた。
彼女はこれまでの人生で、自分の容姿にさほど自信を持っていたわけではなかった。しかし、高橋に出会ってからすべてが変わった。彼に相応しい女性になるためなら、どんな努力も、どんな出費も惜しくなかった。
美咲は手帳を開き、明日からの作戦を練り始めた。
高橋の行動パターンは、すでに完璧に頭に入っている。彼が何時にどの電車に乗り、どのルートで営業先に向かうのか。美咲は自分のスマートフォンに登録された高橋のスケジュールを見つめながら、指先で画面をなぞった。
「明日は、大輔さんが外回りで直帰する日……」
美咲の瞳に、怪しい光が宿る。会社の中だけでは、これ以上の進展は望めない。ならば、会社の一歩外側で、彼との「接点」を無理やりにでも作り出すしかない。
彼女はデスクの上に置いたボールペンを、今度は自分の引き出しの奥にある、小さなベルベット製の箱の中に大切に仕舞い込んだ。その箱の中には、高橋が使っていたクリップや、彼が飲み干した缶コーヒーのプルタブなど、彼女が集めた「高橋大輔の破片」がいくつも収められていた。
「おやすみなさい、大輔さん。明日、またお会いしましょうね」
暗闇の中で、美咲は壁の写真に向けて呟いた。写真の中の高橋は、何も知らずに爽やかな笑顔を浮かべたままであった。美咲の歪んだ愛は、静かな夜の底で、さらに深く、ドロドロとした狂気へと発酵していくのだった。
続けて、美咲が職場での行動をさらに大胆にしていく第8話(2,000文字以上)をお送りします。




