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歪んだ愛  作者: S.S
第二章 観察と境界線の崩壊

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第6話:仕組まれた孤立

吉川香織のロッカーに「警告」の封筒を投げ込んでから、一週間が経過していた。

社内の空気は、目に見えて張り詰めていた。総務部が防犯カメラの映像を確認したらしいが、更衣室の手前の廊下は死角が多く、時間帯も社員の出入りが激しいタイミングだったため、犯人の特定には至らなかったという。その結果が、社内の不気味な疑心暗鬼をさらに加速させていた。

「本当に気持ち悪いよね。身近にそんな狂った人がいるなんて」

給湯室で、他部署の女子社員たちが声を潜めて噂話をしている。美咲はいつものように、穏やかな、少し怯えたような表情を貼り付けてその輪に加わっていた。

「本当ですね……。吉川さん、大丈夫でしょうか。早く犯人が捕まるといいんですけど」

「相原さんは優しいね。でも気をつけてね、明日は我が身かもしれないから」

「はい、ありがとうございます」

美咲は丁寧に頭を下げ、淹れたてのコーヒーを持って給湯室を後にした。誰もいない廊下に出た瞬間、彼女の口元は醜く歪んだ。

(捕まるわけがないでしょう。私はあなたたちみたいに頭が緩くないの。大輔さんを救うためなら、私はなんだってできるんだから)

美咲が何よりも満足していたのは、その嫌がらせの効果が、予想以上に高橋と香織の「関係」にヒビを入れ始めていることだった。

香織は完全に精神を病んでいた。誰に見られているか分からないという恐怖から、社内を歩く時も常に怯え、高橋に対しても「あなたのせいで私がこんな目に遭っているんじゃないの?」と、八つ当たりのような言葉をぶつけるようになっていた。完璧な男である高橋を独占しているという優越感は一転し、彼女にとって高橋との恋愛は「命の危険を伴うストレス」へと変わっていたのだ。

一方の高橋も、日に日に疲弊していくのが目に見えて分かった。

毎朝、美咲が確認する彼の出勤時間は、少しずつ遅くなり始めていた。午前七時五十二分という、かつての寸分の狂いもない正確さは失われ、八時を過ぎて、酷く暗い表情でフロアに入ってくることが増えた。

「高橋先輩、おはようございます。これ、今日の午前中の営業資料です」

美咲は高橋がデスクに鞄を置くと同時に、タイミングを見計らって資料とコーヒーを差し出した。

「あ、相原さん……。おはよう。いつもありがとう」

高橋の声は掠れていた。目の下には、美咲が土日に作っていたものよりもずっと濃い、漆黒のクマが刻まれている。彼はコーヒーを口に運んだが、その味を噛み締めている様子はなかった。ただ機械的に、カフェインを摂取するためだけに喉に流し込んでいる。

「高橋先輩……あの、差し出がましいようですけど、最近あまり眠れていないんじゃないですか? お顔の色が、とても悪いです」

美咲は痛ましそうな、心から彼を心配する「健気な後輩」の瞳で高橋を見つめた。

「え? ああ……。ちょっとね。最近、プライベートでいろいろあってさ」

高橋は力なく笑い、自嘲気味に首を振った。

「吉川さんのこと、ですよね。社内でも噂になっています。先輩が彼女のことを心配して、一生懸命支えようとしているって……。でも、先輩まで倒れてしまったら、元も子もありません」

美咲の言葉は、一見すると純粋な気遣いに聞こえる。しかし、その裏には「香織はあなたに負担をかけるだけの存在だ」という強烈な毒が仕込まれていた。

「……そうだね。香織も、最近は僕と話すだけでパニックになりがちで。僕が近くにいることが、逆に彼女を追い詰めているんじゃないかって、分からなくなってきたんだ」

高橋はデスクに肘をつき、両手で顔を覆った。優秀で、常に自信に満ち溢れていた営業のエースが、美咲の前で初めて「弱音」を吐いた瞬間だった。

美咲の胸の奥で、歓喜のファンファーレが鳴り響いた。

(そうよ、大輔さん。あの女はあなたに相応しくない。あなたを苦しめるだけの、ただの荷物なの。早く捨ててしまえばいい。あなたの本当の理解者は、私だけなんだから)

「先輩は、何も悪くありません。悪いのは、そんな理不尽な嫌がらせをする犯人です。先輩が責任を感じる必要なんて、どこにもありませんよ」

美咲はそっと、高橋の肩に手を置こうとした。しかし、会社のフロアという場所柄を思い出し、不自然にならない位置で手を引っ込めた。

「私は、いつでも先輩の味方ですから。何か私にできることがあれば、なんでも言ってくださいね。仕事のフォローでも、愚痴を聞くことでも」

高橋は顔を上げ、美咲を見つめた。その瞳には、暗闇の中で小さな光を見つけたような、かすかな安堵の色が浮かんでいた。

「ありがとう、相原さん。本当に、君がいてくれて良かった。いつも助けられてばかりだな」

「そんな……。私は、先輩が笑ってくれれば、それでいいんです」

美咲は頬を赤らめ、嬉しそうに微笑んだ。

高橋にとって、この時の美咲は「ドロドロした現実から救ってくれる、唯一のオアシス」のように見えていたに違いない。しかし、彼が足を踏み入れたそのオアシスこそが、美咲が巧妙に仕掛けた底なしの沼であることに、彼はまだ気づいていなかった。

その日の夜。退勤時間が過ぎ、フロアの明かりが半分落とされた頃。

美咲は自分のデスクで、高橋が退勤していくのを見送った。彼は今日も香織の様子を見に行くのか、重い足取りでエレベーターへと向かっていった。

美咲は誰もいなくなった高橋のデスクへと歩み寄った。

彼の椅子に腰掛け、彼が毎日触れているキーボードに、自分の指を重ねるようにして触れていく。そして、デスクの端に置かれていた、高橋が使い古した黒いボールペンに目を留めた。

「これは、私が預かっておくね」

美咲はボールペンを手に取り、自分のバッグの奥深くへと仕舞い込んだ。

彼の一部を、また一つ手に入れた。

美咲の行動は、単なる情報の収集から、彼の「所有物」の略奪へと、確実な一歩を踏み出し始めていた。

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