第72話:漆黒の迷路
洋館の廊下は、すでに焦げた硝煙の匂いと、破壊された電子機器から漏れ出す不気味な火花で満たされていた。
赤い非常灯が規則正しく明滅する中、大輔は美咲の細い手を引いて、冷たいリノリウムの床を駆け抜けていた。まだ足元がおぼつかない大輔の身体を、美咲の冷たい手が必死に支えている。皮肉なことに、これまで大輔を縛り付けていた彼女の手が、今は彼を外界の脅威から守るための唯一の道標となっていた。
「美咲ちゃん、この館から外へ出るルートは? フロントはもう敵に抑えられている」
大輔が走りながら背後の美咲に問いかける。美咲はまだ、大輔が自分を憎むことなく抱きしめ、共に逃げることを選んでくれたという現実の衝撃から抜け出せずにいた。しかし、大輔の強い眼差しに弾かれたように、彼女の天才的な脳が即座に最適解を弾き出す。
「……地下のボイラー室の奥に、かつてこの館の設計者が作った『産廃搬出用の隠し通路』があります。敷地の外壁を潜り抜けて、西側の古い排水路に直結しているわ。そこなら、彼らのEMP兵器の影響も受けていないはず」
「分かった、地下へ向かおう」
二人が階段の踊り場に差し掛かったその時、一階のフロアから、無機質な軍用ブーツが床を鳴らす足音が響いてきた。
「第2班、東側通路をクリア。標的のバイタル信号が消失した。生体管理サーバーが物理的に切断されている。相原美咲が標部を連れて移動を開始した可能性が高い」
「了解した。サーマルカメラ(熱源探知)に切り替えろ。抵抗する者は容赦なく無力化して構わん」
遮音壁の向こうから聞こえる冷徹な声。彼らは大輔を「保護」しに来たのではない。ただの「物品」として回収しに来たのだ。そしてその障害となる美咲は、生きて捕らえる必要などないという意思が、銃器の安全装置を外す乾いた金属音から痛いほど伝わってきた。
大輔は美咲の身体を物陰に引き寄せ、息を殺した。
美咲は大輔の胸に顔をうずめながら、怯えるようにその服の裾を強く握りしめる。
「大輔さん……ごめんなさい。私が、こんなシステムを作ったから、あなたをこんな危険に……」
「いいんだ、美咲ちゃん。君を責めるのは、ここを出て、安全な場所に行ってからだ。今は生きることだけを考えて」
大輔は美咲の頭を優しく撫でると、足音が遠ざかる一瞬の隙を突いて、地下へと続く重い鉄扉を開けた。
地下へと続く階段は、完全な暗黒に包まれていた。非常灯の光すら届かないその空間は、まるで美咲の心の奥底にある孤独の深さをそのまま表しているようだった。大輔はスマートフォンのライトを点けようとしたが、外界の組織が放った強力な電磁波によって、端末の液晶は砂嵐を映し出すだけで完全に機能を停止していた。
「私の手を……握っていてください、大輔さん。ここからは、私の頭の中のマップだけで進みます」
美咲の声から、先ほどまでの取り乱した様子が消え、大輔を絶対に守るというかつての「管理者の冷徹さ」が戻ってきた。しかしそれは、大輔を人形として束縛するためのものではなく、一人の人間として生かすための強い意志だった。
美咲は大輔の手を強く引き、暗闇の中を迷いなく進んでいく。
ボイラー室の錆びついた配管をくぐり抜け、壁の大部分がひび割れた隠し通路へと足を踏み入れた。足元には冷たい泥水が溜まっており、一歩進むたびにベチャベチャと不快な音が響く。
しかし、100話の結末へ向けて回り始めた破滅の歯車は、二人の逃亡を容易には許さなかった。
背後の鉄扉が、激しい衝撃音と共に跳ね開いた。
「熱源を感知! 地下通路に2名、移動中! 追え!」
暗闇の向こうから、銃器に取り付けられた強烈なタクティカルライトの白い光が、サーチライトのように二人の背中を容赦なく照らし出した。
「走って、大輔さん!」
美咲が叫ぶ。大輔は痛む身体に鞭を打ち、泥水を跳ね上げながら全力で走り出した。
直後、背後から「パパパン!」という、消音器を装着された銃の特有な、鈍い破裂音が響いた。
暗闇を切り裂いた数発の弾丸が、二人のすぐ脇のコンクリート壁を激しく削り、火花と鋭い破片を撒き散らす。
「くっ……!」
大輔は、美咲の身体を自分の背中に庇うようにして、さらに速度を上げた。
前方に見えるのは、排水路へと続く古びた鉄格子だ。美咲が事前に仕掛けておいた電子ロックはすでにEMPで壊れていたが、彼女は懐から一本の物理的なマスターキーを取り出し、震える手で鍵穴に差し込んだ。
ガチャン、と重い音がして、鉄格子が数センチだけ開く。
「大輔さん、早く!」
美咲が大輔を押し出そうとしたその瞬間、再び背後から容赦のない銃撃が放たれた。
「――大輔さん!!」
美咲の悲鳴が地下通路にこだまする。
大輔の身体が、一瞬だけ不自然に大きく跳ね上がった。彼の左肩の衣服が赤く染まり、肉を抉られた激痛が彼の脳を直撃する。大輔は苦悶の声を漏らしながらも、倒れ込むことなく、美咲の腕を掴んで鉄格子の向こう側へと力ずくで飛び込んだ。
「閉めて……っ!」
大輔が叫ぶと同時に、美咲は鉄格子を強く引き戻し、内側から鍵を力任せに回して固定した。追手のライトの光が鉄格子の隙間から二人を照らすが、頑強な鋼鉄の格子を肉眼で突破することは戦闘部隊であっても数秒の時間を要する。
「大輔さん! 大輔さん!!」
美咲は泥水の上に崩れ落ちた大輔の身体を抱き起こした。大輔の左肩からは、ドクドクと熱い血が流れ出している。美咲の白い手が、一瞬で大輔の血によって真っ赤に染まっていく。
「大丈夫……かすり傷だ。それより、早くここを離れよう……彼らはすぐに格子を爆破して追ってくる」
大輔は顔を青ざめさせ、痛みに歯を食いしばりながらも、美咲に安心させるような歪な微笑みを作ってみせた。
美咲の胸に、激しい後悔と、それ以上の「外界への激しい怒り」が湧き上がる。
大輔を傷つけるものは、自分のシステムであろうと、外界の組織であろうと、絶対に許さない。彼女の脳の回路が、再び危険な色を帯びて変期していく。




