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歪んだ愛  作者: S.S
第十章

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第71話:虚像の瓦解

館を包んでいた完全な静寂は、耳を突き刺すような高周波の警告音によって一瞬で引き裂かれた。

「嘘……そんなはずはありません。私の構築したファイアウォールが、外からの干渉を許すなんて……!」

相原美咲は取り乱した声を上げ、大輔のベッド脇から部屋の隅にあるメインデスクへと飛びつくように駆け寄った。複数の大型モニターには、ノイズの走る赤い警告画面が次々とポップアップし、彼女が絶対の自信を持っていた「生体管理」と「敷地防衛」の統合システムが、外側から強引に書き換えられていく様子を映し出していた。

画面の端で、敷地境界線に設置されていた赤外線レーザーのステータスが、第一ラインから順にグレーアウトしていく。それはトラップが作動したのではなく、システムそのものが物理的に「沈黙させられた」ことを意味していた。

美咲の背中に冷たい汗が流れる。彼女の天才的な頭脳は、即座にこの異変の正体を弾き出していた。

軍事用の高周波電磁パルス(EMP)兵器。

防回路を施していない電子機器を、一瞬で過電流によって焼き切る、圧倒的な物量と国家規模の技術を持つ組織にしか扱えない「本物の暴力」が、すぐそこまで迫っているのだ。

「大輔さんを……私の大輔さんを、またあの汚い世界に連れ戻そうというのですか……? そんなこと、絶対に許さない……!」

美咲の瞳に、底知れない狂気と焦燥が混ざり合った光が宿る。彼女は激しくキーボードを叩き、バックアップ用の独立回線を立ち上げようと試みた。しかし、部屋全体のLED照明が激しく明滅し、バチバチと不快な放電音を立てて完全に消灯した。予備の蓄電池が作動し、室内は非常用の禍々しい赤い光だけで満たされる。

その時、美咲は背後に、かすかな、しかし決定的な「違和感」を覚えた。

システムが麻痺したことで、大輔の腕に繋がっていた点滴の自動コントロールパネルも強制シャットダウンされていた。つまり、彼の脳へ遮断薬を送り込み続けていた電子のポンプが、完全に停止したのだ。

美咲が恐る恐るベッドのほうを振り返る。

非常用の赤い光に照らされたベッドの上で、高橋大輔は静かに身を起こしていた。

「……大輔……さん?」

美咲の声が震える。

彼女の知っている大輔は、薬物によって自我を去勢され、自分の愛を拒むことなく受け入れるだけの、愛らしい「お人形」だった。だが、今そこにいる男の瞳には、混濁した霧など一滴も残っていなかった。真っ直ぐに自分を見つめてくるその強い眼差しに、美咲は本能的な恐怖を覚えた。

大輔は、自分の右腕に突き刺さっていた点滴の針を、躊躇なく自らの手で引き抜いた。

ぷつり、と皮膚が裂ける音がして、一筋の赤い血が彼の白い肌を伝い落ちる。しかし、大輔は眉一つ動かさなかった。彼はベッドから床へと足を下ろし、まだ薬物の影響で思うように動かない身体を精神力だけで支え、立ち上がった。

「美咲ちゃん。もう終わりにしよう」

大輔の声は、驚くほど静かで、そして優しかった。

「大輔さん、あなた、まさか……いつから意識が……!?」

美咲は一歩、後ろへよろめいた。自分が完璧に管理し、支配していたはずの世界が、足元から音を立てて崩れ去っていく感覚に、目眩さえ覚える。

「さっきの拒絶反応の時からだよ。美咲ちゃんが僕にくれた古い約束を、夢の中で思い出したんだ。僕が迷子になった君を、必ず元の場所に連れ戻すって約束をね」

大輔は一歩、美咲へと歩み寄る。

「違う! 私は迷子なんかになっていません! 私は大輔さんを、あの汚れた外界から守ってあげたの! 誰もあなたを傷つけない、私だけの理想郷を作ったのよ!」

美咲は叫び、デスクの引き出しから、先ほど処理用に使おうとしていた強力な神経抑制剤の注射器をひったくるように構えた。

「戻って、ベッドに戻ってください、大輔さん! そうじゃないと、またお薬を増やさなきゃいけなくなる。私はあなたを傷つけたくないの!」

注射器を持つ美咲の手は、激しく震えていた。彼女自身、もうこの目の前の男を言葉や薬物で縛り付けることができないと、心のどこかで気づいていた。

大輔は、その鋭い針先を見つめながらも、歩みを止めなかった。

「美咲ちゃん。君が僕を愛してくれているのは分かっている。だけど、これは愛じゃない。君自身が、僕を失う恐怖の檻に囚われているんだよ」

「うるさい、うるさい、うるさい……!」

美咲が大輔の胸元に向けて注射針を突き出そうとした、まさにその瞬間。

ドォン!!

館の一階で、凄まじい爆発音が響き渡り、厚い遮音壁さえも激しく振動した。

外界の戦闘部隊が、洋館の鋼鉄のフロントドアを指向性爆薬で吹き飛ばし、内部へとエントリーしたのだ。遮音壁の向こうから、無機質なブーツの足音と、衣服が擦れる不穏な音が近づいてくるのが分かった。

美咲の顔から完全に血の気が引く。

「ネズミたちが……中まで……」

大輔は美咲の手首を、素早く、しかし決して乱暴ではない手付きで掴み取った。彼女の手から注射器が滑り落ち、床で虚しく転がる。

「美咲ちゃん、彼らの目的は僕の回収だ。だけど、君が仕掛けたトラップのせいで、彼らは君を『危険な排除対象』と見なしている。このままここにいたら、君が殺される」

「……大輔さんを連れて行かれるくらいなら、私はここで……!」

美咲はなおもデスクの下にある、館の自爆シーケンスの物理スイッチに手を伸ばそうとする。大輔の存在しない世界など、彼女にとっては生きる価値のない荒野と同じだった。

大輔は、そんな美咲の身体を、引き寄せるように強く抱きしめた。

「させないよ。君を死なせやしない。僕が君を止めるって言っただろ」

大輔の胸の鼓動が、美咲の耳に直接伝わってくる。それは薬物で管理された規則正しい電子音ではなく、不器用で、熱く、力強く脈打つ「人間の命」の音だった。美咲の身体から、すっと力が抜けていく。

「大輔……さん……」

「逃げよう、美咲ちゃん。二人で、ここから」

大輔は美咲の細い手を握りしめ、赤い非常灯が明滅する寝室の扉を開けた。

100話という名の完全な終着点へ向けて、二人の逃亡劇、そして美咲の狂気を解き明かすための本当の戦いが、硝煙の立ち込める廊下の向こう側で、今まさに始まろうとしていた。


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