第70話:偽りの揺りかご
部屋を支配する冷たい静寂の中で、電子モニターの緑色の光だけが、大輔の生存を証明する偽りの数値を規則正しく刻み続けていた。
美咲は、大輔の細い手首に指先を這わせ、その微かな脈動を確かめている。彼女の顔にあるのは、愛する者を自分の管理下に完全に置き去ったという、至上の充足感だった。薬物の投与量は、彼の肉体が拒絶反応を起こさない極限の数値に再設定されている。美咲の計算上、大輔の精神は今、何の苦痛も思考もない、純白の虚無の底で心地よくまどろんでいるはずだった。
「大輔さん……。外の世界は、もうすぐ完全に終わります。だから、あなたは何も心配しなくていいのですよ。ここで私と一緒に、永遠に優しく眠っていればいいのですから」
美咲はそう囁き、大輔の頬にそっと愛おしそうに唇を寄せた。
しかし、その唇が離れた瞬間、大輔の閉じた瞼の裏で、漆黒の炎が静かに燃え上がっていた。
大輔の意識は、すでに完全に目覚めていた。
脳を覆っていた薬物の霧は、美咲との「古い約束」を思い出したあの瞬間に、完全に払拭されていたのだ。身体はまだ薬物の影響で鉛のように重く、指一本動かすのにも、生体モニターの数値を跳ね上げないための超人的な精神コントロールが必要だった。
大輔は、あえてゆっくりと深い呼吸を繰り返し、美咲が全幅の信頼を置いている生体管理システムを徹底的に騙し続けていた。心拍数は一定に、脳波は昏睡状態のフラットな波形を維持する。彼は、完璧な「お人形」の演技を始めていた。
(美咲ちゃん……どうして、こんなことになってしまったんだ……)
大輔の心を満たしていたのは、監禁されている恐怖ではなく、美咲への深い悲しみと、彼女を止めなければならないという強い使命感だった。彼女の天才的な頭脳は、彼への歪んだ愛によって完全に暴走してしまっている。このままでは、美咲自身が自ら作り上げた狂気の要塞と共に、破滅の底へと堕ちてしまう。
(僕が、君を元の場所に連れ戻す。そのためには……まず、この檻の仕組みを理解しなきゃならない)
大輔は感覚の戻った耳を澄ませ、部屋の中の音を拾い集めた。
美咲の衣服が擦れる音。彼女が部屋の隅のデスクへと移動し、ノートPCのキーボードを軽快に叩き始める音。その打鍵音のリズムと、時折混じるスマートフォンの電子音から、大輔は美咲が現在、館の「防衛システム」と「ハッキングシステム」をどのように操作しているのかを、脳内で必死にプログラミングするように解析していった。
美咲は画面に映し出される、物置小屋の侵入者たちのスマートフォンデータを見ていた。
彼女の構築した自律型AIは、男たちの端末から外界の組織へ向けて、「捜索は順調だが、標的の発見には至っていない」という偽の生存報告と位置情報を自動で送信し続けている。美咲は、外界の人間を完璧にコントロールできていると盲信していた。
だが、美咲の自信作であるその防衛網のさらに外側で、100話の破滅へ向けたカウントダウンの歯車は、すでに狂いなく回り始めていた。
街の遥か彼方、厚い防音壁に囲まれた私的治安組織の作戦本部屋。
大型モニターに表示された世界地図の一角が、激しく赤く明滅していた。
「……相原美咲のハッキングを検知。偽装IPのバックトラック(逆探知)を完了しました」
冷徹なオペレーターの声が響く。美咲のハッキングは一級品だったが、組織の持つ国家規模のスーパーコンピューターによる総当たり解析は、彼女のシステムの「わずかな送信ラグ」を完全に見逃さなかった。物置小屋の男たちがすでに無力化され、彼らの端末が「身代わり(デコイ)」として使われている事実は、完全に露見したのだ。
「標的・高橋大輔の生存確率は推定87%。相原美咲による不法監禁と断定する。これより、回収作戦に移行する」
影の中から、重厚な装備を身にまとった戦闘部隊の隊長が姿を現した。その手には、美咲の仕掛けた高電圧電撃柵や赤外線レーザーなど、一瞬で無力化できる「軍事用の高周波電磁パルス(EMP)兵器」が握られていた。
「民間人の妨害者(相原美咲)の生死は問わない。抵抗する場合は即座に排除せよ。作戦開始だ」
闇夜の中、三台の黒い大型SUVが、ライトを完全に消した状態で、大輔たちの立てこもる山奥の洋館へと向けて静かに発進した。それは美咲の歪んだ愛の箱庭を、物理的に粉砕するための「圧倒的な暴力」の接近を意味していた。
洋館の寝室では、美咲が作業を一段落終え、愛おしそうに大輔の元へと戻ってきた。
「大輔さん、お薬の時間ですよ。これを飲むと、もっと気持ちよくなれますからね」
美咲の手には、さらに強力な新型の神経抑制剤が入った注射器が握られていた。大輔の肉体が二度と拒絶反応を起こさないよう、脳の視床下部に直接作用する、美咲の特製ブレンドだった。
大輔は閉じた瞼の裏で、冷や汗が流れるのを必死に堪えた。
この注射をまともに打たれれば、せっかく取り戻した自我が、今度こそ本当に消滅してしまう。
(打たせるわけにはいかない……。だけど、今ここで暴れれば、美咲ちゃんは僕を完全に壊しにかかる。どうする……!?)
大輔の脳細胞が、極限の速度で回転を始める。
美咲が注射器を彼の右腕のラインに差し込もうとした、まさにその刹那。
館全体の照明が、一瞬だけ、激しく明滅した。
それと同時に、美咲の手元のスマートフォンから、これまでに聞いたこともないような、引き裂くような高音の警告アラームが鳴り響いた。
【警告:敷地境界線、第1ラインから第3ラインまで、同時に通信途絶】
【防衛システム、強制シャットダウンの危機】
「……っ!? なんですか、これは……!」
美咲の顔から血の気が引いた。彼女が絶対の自信を持っていた「迎撃システム」が、外側からの未知の強力な電磁波によって、一瞬にして麻痺させられようとしていた。
外界の怪物が、ついに檻の扉を叩いたのだ。
美咲が驚愕してモニターへと駆け寄るその背中を見つめながら、大輔はベッドの中で、感覚の戻った右手の指を、今度こそ明確な意志を持って力強く握りしめた。
歪んだ愛の要塞が、ついに外側から崩壊を始める。
それは、美咲の狂気を止めるための、大輔の命懸けの「反撃」の始まりでもあった。




