第73話:深紅の誓い
冷たい雨上がりの山林は、静寂と濃い霧に包まれていた。
排水路を抜けた美咲と大輔は、濡れた草木をかき分けながら、夜明け前の薄暗い獣道を必死に進んでいた。
「くっ……、はぁ、はぁ……」
大輔の口から、苦しげな吐息が漏れる。左肩を撃ち抜かれた傷口からは、歩を進めるたびに熱い血液が溢れ出し、彼の衣服を深紅に染め上げていた。失血と薬物の残効により、大輔の意識は再び混濁の兆しを見せ始めていたが、美咲の手を握る指先だけには、奇跡的なまでの力が込められていた。
美咲は、大輔の体を自分の肩で支えながら、ただひたすらに前だけを見つめていた。彼女の衣服もまた、大輔の血と泥で汚れ、かつての洗練された姿は見る影もない。しかし、その瞳の奥に灯る光は、洋館にいた頃よりも遥かに鋭く、そして危険な色を帯びていた。
(大輔さんを傷つけた。あのネズミたちが、私の、私だけの大輔さんを……!)
美咲の脳内を支配していたのは、絶望ではなく、外界に対する激しい、燃えるような憎悪だった。彼女にとって大輔は世界そのもの。その世界を物理的に破壊しようとした戦闘部隊、そして彼らを裏で操る組織の存在が、美咲の天才的な頭脳を完全に「戦闘モード」へと変貌させていた。
「大丈夫ですよ、大輔さん。もうすぐ、私の用意した『第二のセーフハウス』に着きます。あそこなら、必要な医療器具も、外界を拒絶するための防衛機構も、すべて揃っていますから」
美咲の声は、恐ろしいほどに落ち着いていた。
山を降りた先の鬱蒼とした竹林の奥に、その場所はあった。外見は古びた平屋の民家だが、その内部は美咲によって完全に改造された、最新鋭の移動式シェルターだった。美咲が隠し扉の電子ロック(こちらは独立した内蔵電源のため、EMPの影響を受けていなかった)を解除し、二人は滑り込むようにして中へと入った。
室内に入ると同時に、美咲は大輔を医療用のベッドへと横たえ、手際よく衣服を切り裂いた。
「あ……、つ、美咲ちゃん……」
「喋ってはダメです、大輔さん。今、弾丸を抜きますからね」
美咲は麻酔薬を大輔の静脈に注入しようとしたが、一瞬、その手が止まった。
脳裏をよぎったのは、先ほどまで大輔を縛り付けていた、あの生体管理システムの記憶だ。また薬を使えば、大輔は自分の言うことを聞く可愛いお人形に戻るかもしれない。しかし、大輔は自分の意志で自分を庇い、一緒に逃げると言ってくれたのだ。
美咲は小さく首を振ると、局所麻酔だけを傷口に施し、滅菌されたピンセットを握り締めた。
「少し痛みますが、耐えてください」
コンクリートの壁を貫通して威力の落ちていた弾丸は、幸いにも大輔の肩の肉に留まっていた。美咲は一切の手元の狂いもなく、肉の奥に埋まった鉛の塊を摘出し、傷口を素早く縫合していく。その手際は、プロの外科医をも凌駕するものだった。
治療を終え、大輔の呼吸が安定したのを見届けると、美咲は部屋の隅にある大型モニターの前に座った。
彼女がキーボードに指を触れた瞬間、彼女の「復讐のシステム」が起動する。
美咲は、洋館を襲撃した私的治安組織のメインサーバーへ向けて、逆襲のハッキングを開始した。彼らが美咲の電波を逆探知したように、美咲もまた、彼らの通信ログから組織の最高幹部たちの個人情報、資産データ、そして彼らが闇で行ってきたあらゆる違法行為の証拠を、網の目のように手繰り寄せ、一瞬で強奪していった。
「私の箱庭を壊した代償は、あなたたちの組織の破滅です」
美咲が画面をタップすると、組織の資金源である秘密口座から、数十億規模の資産が瞬時に世界の電子の海へと霧散し、同時に彼らの機密データが国際警察のサーバーへと自動送信された。明日には、あの戦闘部隊を動かしていた組織そのものが、内側から崩壊を始めることになるだろう。
しかし、美咲の復讐はそれだけでは終わらなかった。
画面の隅に、新たなアラームがポップアップする。
それは、街のニュース番組の緊急速報だった。
『速報です。山奥の洋館で発生した爆発事件に関連し、警察は、誘拐および銃刀法違反の疑いで、高橋大輔容疑者と相原美咲容疑者の二人の行方を追っています――』
画面に映し出されたのは、二人の顔写真だった。
外界の組織は、自分たちの崩壊を察知する前に、国家の警察権力を動かし、大輔と美咲を「凶悪な逃亡犯」として仕立て上げたのだ。
美咲は、赤い光に照らされるモニターを見つめながら、くく、と低く笑った。
「いいわ……。世界中が敵になるというのなら、望むところよ」
美咲はベッドで眠る大輔の元へと歩み寄り、その頬にそっと手を添えた。
世界が彼らを拒絶するなら、自分たちが世界を拒絶すればいい。今や二人は、同じ血の匂いを纏った、運命の共犯者なのだから。




