第67話:処理と覚醒の兆し
激しい雨は、夜の闇をさらに深く、重く塗り潰していくようだった。
屋根を叩く無数の雨粒の音に混じり、敷地南側の雑木林からは、ジジジ……と肉が焼けるような不快な電子音と、男の低いうめき声が途切れ途切れに響いている。
美咲の仕掛けた高電流を浴びた一人目の男は、泥水に顔を半分埋めたまま、芋虫のようにピクピクと痙攣を繰り返している。もう一人の男は、腰が抜けたように地面にへたり込み、狂ったように周囲を見回していた。
「ひっ……、あ、開けろ! 出せ! 誰だ、誰がいるんだよ!」
男が叫ぶ。だが、その声は厚い雑木林と、叩きつける豪雨にかき消されて周囲には届かない。男の手元にあるはずのスマートフォンは、美咲の仕掛けた「電波妨害装置」によって、完全に圏外を示していた。外界との繋がりを一切絶たれたこの敷地内は、近代的な通信技術が完全に無力化された、美咲だけの「絶対王政の領土」なのだ。
カツ、カツ、と、雨音に混じって規則正しい足音が近づいてくる。
男が恐怖に目を見開き、そちらを振り向いた。
暗闇の中から現れたのは、透明なレインコートを羽織った美咲だった。
その手には、先ほどまで大輔の部屋で使っていたものとは異なる、無機質な金属製の太い注射器が握られている。傘も差さず、雨水に濡れた姿だが、美咲の表情には一切の乱れがなかった。まるで、庭に生えた雑草を毟りに行くかのような、退屈で、それでいて完璧な義務を遂行する者の顔だった。
「ひ、人殺し……! 警察を呼ぶぞ! 触るな!」
男は泥まみれになりながら後ろへ這いつくばって逃げようとする。しかし、その背中はすぐに、赤外線レーザーが怪しく明滅する鋼鉄の防護柵に行き当たった。これ以上は一歩も進めない。
美咲は冷たい、深い底のような瞳で男を見下ろした。
「警察、ですか。面白いことを言いますね。電波も繋がらないこの場所で、どうやって呼ぶのですか? それに……」
美咲は一歩、男に近づく。
「私の大輔さんを汚し、奪おうとする不埒な害虫を駆除することが、どうして罪になるのでしょう。これは正当防衛ですよ。私の、愛する世界を守るための」
「頭がおかしいのかよ、お前……っ!」
男が掴みかかろうと腕を伸ばした瞬間、美咲の手が恐ろしい速度で動いた。
容赦なく男の首筋へと突き立てられたのは、大咲が自身の手で調合した、強力な筋肉弛緩剤と睡眠導入剤の混合液だった。
「が、は……っあ……」
男の目にみるみるうちにハイライトが消え、言葉にならない声を漏らしながら、泥の中へと倒れ込んだ。美咲は感情の籠もらない手付きで注射器を引き抜くと、小さくため息をついた。
「これで二人。……少し、処理に手間取りましたね。大輔さんが寂しがっているかもしれない」
美咲は二人の男の身体を、手際よく近くの物置小屋へと引きずっていった。昨日、この「防衛戦」を予期してあらかじめ用意しておいた場所だ。彼らの身ぐるみを剥ぎ、身元が分かるものをすべて没収する。そし、生体管理システムの一部として、彼らのスマートフォンもまた、美咲のサーバーにハッキングされ、外界へ「順調に追跡調査を行っている」という偽のテキストデータを自動送信する泥人形へと変えられた。
これで、外界の人間がこの場所に異変を察知するまでの時間は、さらに引き延ばされたことになる。
処理を終えた美咲は、衣服を厳重に消毒し、何事もなかったかのように館へと戻った。
電子ロックを幾重にも解除し、厚い遮音壁に守られた大輔の寝室へと入る。
部屋の中は、先ほどと変わらず静寂に満ちていた。
だが、ベッドに近づいた美咲は、わずかに眉をひそめた。
大輔の白い頬に、涙の跡が光っていたからだ。それだけではない。彼の細い指先が、布団の端をぎゅっと握りしめるように強張っている。
「……大輔さん?」
美咲はベッドの脇に膝をつき、彼の顔を覗き込んだ。
「怖い夢でも見ましたか? 大丈夫ですよ。外の悪い虫たちは、私がすべて片付けましたから。あなたはただ、私の腕の中で、何も考えずに眠っていればいいのです」
美咲は大輔の腕に固定されている点滴のチューブに目をやった。
そこには、大輔の心拍数や脳波、体温をリアルタイムで監視する「生体管理システム」のセンサーが取り付けられている。美咲の手元のスマートフォンには、大輔のバイタルデータが途切れることなく流れ込んでいた。
【心拍数:82(やや上昇)】
【脳波:ステージ2(軽睡眠状態)】
【自律神経バランス:交感神経優位】
「おかしいですね。薬の投与量は間違っていないはずなのに、意識が浮上しかけている……?」
美咲の目に、微かな焦燥が浮かんだ。
大輔に投与しているのは、脳の認知機能を著しく低下させ、自我を奪うための特殊な薬物だ。普通であれば、自力で意識を保つことなど不可能なはずだった。
しかし、美咲は知らなかった。
大輔の肉体は薬物によって支配されていても、彼の深い精神の底にある「私」という存在は、完全に消え去ってはいないということを。
(……暗い。冷たい……)
大輔の精神は、底のない深い沼の底に沈んでいるようだった。
身体は自分のものとは思えないほど重く、指一本動かすこともできない。頭の中には常に霧が立ち込めていて、自分が誰なのか、ここがどこなのかも分からなくなる。
だが、先ほど外で響いた、かすかな振動。何かが破裂し、人間が絶叫したような、あの生々しい不穏な気配。それが、薬物によって麻痺させられていた大輔の原始的な恐怖の回路を、無理やり叩き起こしたのだ。
(私は……どうしてここにいるの……?)
(美咲ちゃんは、僕を愛してくれているはずなのに……どうして、こんなに苦しいの……?)
混濁した記憶の断片が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。
かつての自由だった日々。優しかった美咲の笑顔。しかし、その裏にある、狂気じみた執着。
「あなたは私のお人形」と言われたような、冷たい記憶の残像。
大輔の脳波データが、スマートフォンの画面上で激しく波打ち始めた。
「……だめですよ、大輔さん。私を置いて、そんなところへ行ってはだめです」
美咲は冷酷な手付きで、点滴のコントロールパネルを操作した。
投与レートをさらに一段階、引き上げる。
無色透明な液体が、チューブを伝って大輔の細い静脈へと容赦なく送り込まれていく。
「くっ……、あ……」
大輔の口から、小さな、押し殺したような悲鳴が漏れた。
脳を直接冷たい氷で殴られたような、激しい悪寒が彼の全身を突き抜ける。せっかく浮上しかけていた意識が、再び強力な薬物の重力によって、暗黒の底へと引きずり落とされていく。
【心拍数:64(安定)】
【脳波:ディープスリープ(徐波睡眠)】
スマートフォンの画面が、何事もなかったかのように「正常」を示す緑色の光に戻った。
美咲はホッと胸をなでおろし、大輔の涙を指先で優しく拭った。
「そう、それでいいのです。あなたは何も知らなくていい。何も見なくていい。私だけの、可愛いお人形のままで……」
美咲は大輔の手を握りしめ、その冷たい手の甲に何度も、何度も狂気的なキスを浴びせた。
生体管理システムは完璧だ。防衛網も破られてはいない。
この館の中にあるのは、美咲が作り上げた、歪んだ「永遠」の箱庭だった。
しかし、美咲は気づいていなかった。
一度ひび割れた意識の殻は、どれだけ薬物を投与しても、完全に元通りにはならないということを。大輔の魂の奥底で、美咲への「疑念」と「恐怖」という名の小さな火種が、静かに、確実に灯り始めていた。
降り続く雨は、館の周囲の泥を深く抉り、すべてを押し流そうとしている。
第九章、生体管理のシステム。
それは美咲にとっての完璧な揺りかごであり、大輔にとっては、命を賭した脱出への、カウントダウンの始まりでもあった。
外の物置小屋で冷たくなっていく侵入者たちの存在が、やがてこの要塞を揺るがす最大の引き金になることを、まだ誰も知らない。




