第65話:防衛線
外界と繋がるすべての電波が遮断された電子の檻の中で、朝を迎える意味などとうに失われていた。
遮光カーテンに厳重に阻まれた室内は、人工的なLEDの薄明かりだけが虚しく空間を照らしている。ベッドの傍らに佇む相原美咲は、微かに寝息を立てる高橋大輔の額に、慈愛に満ちた手付きで優しく手を当てた。
「よく眠れましたか、大輔さん。今日も外はとても静かで、安全ですよ。もう誰も、大輔さんを傷つけたりしませんからね」
美咲の甘い声が鼓膜を揺らし、大輔の長い睫毛がかすかに震える。しかし、その瞳が焦点を結び、美咲の姿を捉えることはない。美咲が彼の細い腕に新しく接続した、特製の遮断薬入りの点滴は、大輔の脳から「抗う」という意志と「逃げる」という自由を完全に、そして恐ろしいほど心地よく削ぎ落としていた。
「……み、さき……ちゃん……。ぼく、また、暗い海の底にいるような……夢を、みていたみたいだ……」
掠れた声で力なく呟く大輔の頭を、美咲はまるで聖母のような深い優しさを湛えた笑みで撫でる。その指先は冷たく、どこか機械的だった。
「いいんですよ、大輔さん。もう何も考えなくていいんです。外界の悪い虫たちが、あなたを私から奪おうと汚しに来ないよう、私が全部、綺麗にしてあげましたから。大輔さんはここで、私だけを見ていればいいの」
美咲は、大輔を愛している。その愛の形が、彼を五感ごと電子の檻に閉じ込め、薬物で精神を去勢することだったとしても、彼女にとってはこれ以上ない純粋な「真実の愛」だった。
美咲は手元のスマートフォンに目を落とした。画面に整然と並ぶ防犯ステータスは、すべて「迎撃作戦中(健在)」の文字を維持している。
昨日、この敷地を取り囲む鬱蒼とした雑木林の木々に、美咲が冷徹な手際で仕掛けた「野生動物除けを改造した超高電圧の電撃柵」と「赤外線レーザーの感知網」は、侵入者を一歩も生かして帰さないための防衛網だった。それはもはや、個人のストーカー対策や防犯の域を遥かに超えた、大輔を誰の目にも触れさせないための私設の要塞だった。大輔を外界から「防衛」するための、美咲だけの戦争。
その時、美咲の持っていたスマートフォンのバイブレーションが、静寂に包まれた薄暗い部屋に短く響いた。
美咲の美しい眉が、ピクリと跳ねる。
画面に自動でポップアップされたのは、敷地南側の雑木林を捉えた暗視カメラの映像だった。
そこには、美咲の予測通り、泥に塗れたタクティカルブーツを履き、執拗にこちらの様子を窺いながら前進してくる「男たち」の姿が映し出されていた。かつて大輔を連れ戻そうと動いていた、外界の人間たちだ。
「さっそく、汚いネズミたちが遊びに来てくれたみたいですね……」
美咲は唇の端を吊り上げ、冷酷な笑みを浮かべた。そして、ベッドの上で意識を失いかけている大輔に、シルクの毛布を優しく掛け直した。
「少しだけ、お庭の『おもちゃ』の様子を見てきますね。大輔さんは、ここで良い子で待っていてください。いい子にしておねだりしたら、後で美味しいスープをあげるから」
意識の海へと再び引きずり込まれかけている大輔は、ただ力なく微笑み、小さく頷くだけだった。美咲への絶対的な依存と、薬物がもたらす底なしの偽りの平穏。それが、今の肉体を奪われた大輔のすべてだった。
美咲は静かに部屋を出ると、玄関で透明なレインコートを羽織り、手元のアラーム制御スイッチを起動した。
外は激しい雨が降り続いている。
電子ロックで何重にも閉ざされた鋼鉄の扉を開け、外へ足を踏み出した美咲の瞳には、一切の容赦のない、冷徹な捕食者の光が宿っていた。大輔を繋ぎ止めるための、血生臭い「防衛戦」が、今幕を開ける。




