第64話:聖域の防壁
深夜午前三時。山梨の深い山中に建つ『終の檻』の外側は、漆黒の闇と激しい雨に包まれていた。
叩きつけるような雨音が、木々の葉を激しく揺らしている。しかし、壁一面が防音吸音材で固められた密室の中には、その自然の狂気は一デシベルの音さえも届かなかった。
部屋の中に響くのは、高橋大輔の左腕に繋がれた輸液ポンプが刻む、電子的な作動音だけだった。
相原美咲は、レインコートを身に纏い、手には大きな工具箱を持って玄関の重厚な電子ロックを解錠した。彼女の服からは、濡れた土と深夜の冷たい山の空気が立ち上っていたが、その表情には、自らの帝国を守り抜くという絶対的な決意の光が宿っていた。
美咲は昨日、高橋の銀行口座の凍結と自治体のアラームによって、外の世界の警察や調査員が再び動き出す可能性を察知していた。
人間の追跡者がこの山奥の別荘地に辿り着くまでには、まだ数週間の猶予があるはずだった。しかし、美咲の狂気的な完璧主義は、そのわずかなリスクさえも許さなかった。彼女は今日、深夜の闇に乗じて、一軒家の周囲を囲む雑木林の敷地内に、独自の『防犯迎撃システム』を構築していたのだ。
彼女が設置したのは、一般的なストーカーが使うような防犯カメラだけではなかった。
ネットの闇市場で仕入れた、野生動物の駆除用の超高電圧の電気柵、そして、敷地内に侵入した人間の足音や体重の移動を感知して、自動的に美咲のスマートフォンへサイレントアラームを送信する『地中埋設型圧力センサー』だった。さらに、建物の床下や屋根裏の隙間に至るまで、赤外線レーザーの監視網が網の目のように張り巡らされた。
「これでよし……。もし、あの汚い悪魔たちが一歩でもこの敷地に足を吸い入れたら、その瞬間に私の手元でぜんぶ分かるわ」
美咲はレインコートを脱ぎ捨て、真っ白なガウンに着替えると、点滴の繋がれた高橋の寝室へと入っていった。
高橋は、強い薬の浮遊感の中でゆっくりと目をあけた。彼の瞳には、かつてのように抵抗しようとする意志はもうどこにもなかったが、美咲が放つ冷たい外気の匂いに対して、微かに鼻を動かした。
「美咲ちゃん……どこに、行っていたの……? 部屋が、すごく寒くなったみたい……」
高橋の声は、すっかり言葉の輪郭を失い、消え入りそうなトーンで漏れた。
美咲はベッドの横に座ると、自分の冷え切った両手で高橋の頬を包み込み、彼の唇に深く、粘り気のあるキスを落とした。
「大輔さん、ごめんなさいね、寂しくさせちゃって。大輔さんをね、外の悪い人たちから守るために、お庭にちょっとした『おもちゃ』を仕掛けていたんです。大丈夫ですよ、大輔さんはこの白いお部屋の中で、私の点滴だけを浴びて、静かに眠っていればいいんですからね」
美咲はそう言うと、高橋の左腕の点滴チューブのポートに、新しい鎮静剤のボトルを接続した。
輸液ポンプの液晶画面の数字が変わり、一時間あたりに彼の血管へと注入される薬剤の量が増やされていく。高橋は、自分の静脈を伝って脳へと一気に這い上がってくる、冷たくて甘い劇薬の感触を全身で感じていた。
脳の奥底に微かに残りかけていた、オフィスのデスクの景色や、友人たちの笑い声の残像が、再びどす黒いインクを流し込まれたように、急速に塗りつぶされて消えていく。
高橋は、自分のアイデンティティが消去されていくそのプロセスに、恐怖ではなく、むしろ圧倒的な平穏と快感を覚えるようになっていた。自分で考える必要はない。自分の人生をどうするか悩む必要もない。すべての生存のスイッチは、目の前にいるこの美しい聖母が握ってくれているのだから。
「うん……ありがとう、美咲ちゃん。僕を、ずっとここに置いてね。外の世界なんて、もう行きたくないよ……」
高橋は完全に焦点の合わなくなった瞳をゆっくりと閉じ、美咲の腕の中で、深い、均一な白夜の眠りへと落ちていった。
美咲は彼の寝息を聴きながら、手元のスマートフォンの画面を開いた。
画面には、新しく設置された地中センサーと電気柵のステータス画面が、すべて『正常作動中(緑色)』の文字で点灯していた。




