第63話:綻びのデジタル・フットプリント
無響室の天井に張り付いた純白の蛍光灯は、変わらず均一な光で部屋のすべてを白く染め上げていた。
相原美咲は、ベッドの横に設置された生体情報モニターの数値を万年筆でノートに書き写す手を止め、手元のスマートフォンを冷徹な瞳で見つめていた。画面の向こう、彼女が独自のルートで構築した『終の檻』の外周を監視する十二台の防犯カメラの映像には、風に揺れる山林の雑木以外、人間の人影は一切映っていない。
しかし、美咲の胸の中には、これまでにない不快な、そして冷たい胸騒ぎがじわじわと広がっていた。
彼女が高橋大輔をこの世から消し去るために施した偽装工作は、人間関係の面においては完璧だった。彼の筆跡をミリ単位でスキャンして作成した退職届、実家へ定期的に自動送信される「海外で元気にやっている」という偽のメッセージ。それらはすべて、人間の心理的な油断を突くための最高のアートピースだった。
だが、美咲は現代のデジタル社会が持つ、もう一つの冷酷な自動システムを見落としていた。
それは、人間の感情や嘘など一切通用しない、ネットワーク上に刻まれた『デジタル・フットプリント(足跡)』の自動更新システムだった。
事の始まりは、美咲が毎月、高橋大輔の銀行口座から、この隠れ家の維持費や高額な医療機器の購入代金を、彼のオンラインバンキングを使って密かに引き落としていたことだった。本人のパスワードもセキュリティトークンも、美咲は目黒の部屋で彼のすべてを没収した際に手に入れている。彼女にとっては、自分の財布からお金を移すだけの簡単な作業に過ぎなかった。
しかし、高橋大輔のスマートフォンは数ヶ月前に美咲によって物理的に破壊され、SIMカードも処分されている。
美咲は自分のパソコンから、特殊なプロキシサーバーを経由して彼の口座にアクセスしていたが、銀行のセキュリティシステムは、数ヶ月間も「通信キャリアの端末」からのアクセスが一切なく、突如として「海外の暗号化サーバー(プロキシ)」から高額な送金が繰り返されている口座を、自動的に『不正利用の疑い(フィッシング詐欺)』のフラグに指定したのだ。
さらに決定的な綻びは、高橋が加入していた民間保険のシステムから生じた。
高橋が会社を退職した際、美咲が偽造した書類によって手続きは完了していたが、社内の健康保険組合から国民健康保険への切り替え手続きが、本人の署名や役所への出頭がないまま一定期間放置されたため、自治体のシステムが「所在不明による資格喪失」のアラームを自動で発報したのだ。
これらのデジタル上のアラームは、美咲の元へは届かない。高橋の実家の古いパソコンのメールアドレス、あるいは彼の友人たちが共有するネットワークの端々へと、静かに、しかし確実に通知されていた。
「大輔さん……外の汚いシステムが、またあなたを私から見つけ出そうとしているわ」
美咲は横たわる高橋の頬を冷たい指先で撫でながら、低く呟いた。
点滴のチューブに繋がれた高橋は、強い鎮静剤の影響で浅い微睡みの中に沈んでおり、美咲の言葉を理解している様子はなかった。彼の右手首の鎖が、微かな呼吸に合わせてチリンと小さく鳴る。
美咲は立ち上がり、リビングのデスクに向かった。
彼女のパソコンの画面には、彼女が裏で仕込んでおいた、高橋の実家のネットワークを監視するためのスパイウェアのログが表示されていた。そこには、数時間前に高橋の父親が、地方の小さな交番の親しい警察官に「息子の口座が凍結されたみたいなんだが、本当に海外にいるのだろうか」と相談しているメールの履歴が残されていた。
システムという名の見えない怪物が、美咲が作った完璧な繭の糸を、端から一本ずつ手繰り寄せ始めている。
「絶対に渡さない……。大輔さんは私のお人形。外の世界の誰にも、一歩も近づかせない」
美咲の眼鏡の奥の瞳に、どす黒い殺意と執着がドロドロと燃え上がった。
彼女は手元にある注射器を強く握りしめ、この『終の檻』の周囲の防犯トラップをさらに過激なものへと強化するため、深夜の山林へと一人で足を踏み出す準備を始めるのだった。




