第62話:自家製医療の深淵
医療用モニターが発する規則正しい電子音だけが、無響室の漆黒の壁に吸い込まれていく。
高橋大輔は、ベッドの上で右手首と両足首を真鍮の鎖で繋がれたまま、自分の左腕に突き刺さっている点滴の針を、焦点を失った瞳で見つめていた。
数日前、全身を襲ったあの激しい痙攣発作の後、彼の生活は完全に一変していた。
口から食事を摂ることは一切禁止され、彼の肉体を維持しているのは、美咲が闇ルートで購入した高カロリー輸液と、独自の調合で点滴パックの中に混入させている各種のビタミン剤、そして――かつてのシロップ薬に代わる、静脈注射用の微量な鎮静剤の液体だった。
美咲は、高橋に直接針を刺し、点滴の速度を管理するための「自家製医療」の技術を、わずか数日間の独学で完璧にマスターしていた。彼女の手元にあるノートには、高橋の心拍数や血圧の変動だけでなく、点滴の残量や、一時間あたりに彼の血管へと注入される薬剤のミリグラム単位の数字が、恐ろしいほどの細かさでグラフ化されて記録されていた。
「大輔さん、お薬の量を少し減らしましたからね。点滴に変えてから、大輔さんの心拍数がとっても安定していて、私、本当に安心したんです」
美咲はベッドの横の輸液ポンプのボタンを押し、電子的な設定音を響かせながら言った。
彼女の狙いは、高橋の肉体の完全な「形骸化」だった。口から食べさせ、排泄を管理する手間さえも、この点滴システムとカテーテルによる管理に置き換えることで、高橋は一歩もベッドから動く必要がなくなり、完全に彼女の手のひらの上だけで生きる「生体標本」のようになったのだ。
しかし、美咲がお薬の量を一時的に調整したことで、高橋の脳内に、予期せぬ「奇妙な現象」が起き始めていた。
数ヶ月にわたって強い薬の霧で麻痺させられていた彼の脳細胞が、薬剤の血中濃度がわずかに変化したことによって、一瞬だけ、奇跡的な『覚醒』の兆候を見せたのだ。
(僕は……高橋、大輔……。中堅企業の、営業部の、主任だった……)
高橋の濁っていた瞳の奥に、一瞬だけ、かつてのような鋭い知性の光がパチパチと火花を散らすように蘇った。
彼の脳裏に、セピア色に褪せていたはずの過去の記憶が、濁流のように一気に逆流してくる。毎朝のオフィスの匂い、出勤途中の渋谷駅の雑雑、自分が手がけた大きなプロジェクトの達成感。そして――自分を裏切り、ロッカーに手紙を残して去っていったはずの元恋人、吉川香織の本当の涙の顔。
(違う……香織は僕を嫌って逃げたんじゃない。美咲ちゃんが、彼女を追い詰めたんだ。渡辺先輩も、僕を陥れてなんていなかった。すべては、あの目の前にいる少女が作った、巨大な嘘のシナリオだったんだ……!)
高橋の全身に、鳥肌が立つような強烈な恐怖と衝撃が走った。
すべての真実を、失われていた人間としてのアイデンティティを、彼はこの点滴に繋がれたベッドの上で、完全に思い出してしまったのだ。彼は右手首の鎖を握りしめ、美咲に向かって怒りの声を上げようとした。
「みさ……き……君、君が、全部……!」
しかし、彼の口から漏れたのは、長年の失声と衰弱によって、掠れた、空気の抜けるような音だけだった。数ヶ月間もまともに使っていなかった声帯は、彼の激しい怒りを言葉として出力することを拒絶した。それだけではなく、彼の左腕のモニターが、彼の感情の高ぶりを察知して、ピー、ピー、ピーと高い警告音を鳴らし始めた。
美咲はハッと顔を上げ、モニターの数値と、高橋の瞳に宿った『人間の光』を凝視した。
彼女は一瞬だけ表情を強張らせたが、すぐにすべてを理解したように、悲しげな、しかし絶対的な冷酷さを秘めた聖母の笑みをその顔に浮かべた。
「あら……大輔さん。また、外の汚い悪魔たちの記憶を思い出してしまったんですね。あんな過去の記憶なんて、大輔さんを苦しめるだけのゴミなのに。やっぱり、お薬の量を減らすのは早すぎたみたい」
美咲は迷うことなく、ベッドの横の医療用架台から、一本の新しい注射器を取り出した。
中には、高橋の脳を再び深い微睡みの底へと突き落とすための、強力な鎮静剤の原液が満たされていた。彼女は点滴のチューブの途中にある注入用ポートに迷わず針を突き刺し、ピストンをゆっくりと、確実に押し込んでいった。
「嫌だ……やめろ……離して、くれ……!」
高橋は胸の中で狂ったように叫び、右手で彼女の手を振り払おうとした。しかし、チューブを通じて彼の静脈へと直接流れ込んだ冷たい劇薬は、わずか数秒で彼の脳のすべての神経を麻痺させていった。
脳裏に蘇りかけていたオフィスの景色や友人たちの顔が、再びどす黒いインクを流し込まれたように、急速に塗りつぶされて消えていく。高橋の瞳から、一瞬だけ灯った人間としての知性の光が、スーッと生気を失って消え去っていった。彼の身体から全ての力が抜け、ベッドの上にシーツのように薄く崩れ落ちる。
「おやすみなさい、大輔さん。余計なことは何も考えなくていいんですよ。この白い診察室の中で、私の点滴だけを浴びて、永遠に私だけの可愛いお人形でいてくださいね」
美咲は高橋の完全に焦点の合わなくなった瞳を優しく閉じさせ、彼の冷たくなった頬に自分の唇を重ね合わせた。




