第61話:崩壊する肉体と、白き診察室
無響室を支配する純白の蛍光灯の光の下、高橋大輔の肉体はついに、数ヶ月に及ぶ過酷な監禁生活と、美咲が毎食後に投与し続けた強い鎮静剤・筋弛緩剤の蓄積によって、決定的な「拒絶反応」を起こし始めていた。
それは、いつものように美咲が笑顔でカボチャのポタージュスープを彼の口元へ運んだ、ある朝(と思われる時間)のことだった。高橋は鳥の雛のように素直に口を開けてスープを飲み込んだが、そのわずか数分後、彼の全身がまるで電気ショックを与えられたかのように激しく硬直したのだ。右手首と両足首をベッドに繋ぎ止める真鍮の鎖が、ガチャン、ガチャンとこれまでにない激しい音を立ててのたうつ。
「あ……が、あ……っ!」
高橋の口から、幼児退行したか細い声ではなく、獣のような濁った悲鳴が漏れた。彼の瞳は大きく見開かれ、焦点が定まらないまま天井の蛍光灯を凝視している。全身の筋肉が異常なまでに突っ張り、口元からは白い泡が溢れ出ていた。長期間にわたり、医療知識のない美咲が独自の判断で過剰投与し続けた薬物の毒素が、ついに彼の肝臓と中枢神経の許容量を超え、重篤な副作用としての痙攣発作を引き起こしたのだ。
美咲は持っていたスープの器を床に落とした。陶器が吸音材の床に鈍い音を立てて転がり、オレンジ色の液体が青畳の上へと広がっていく。しかし、美咲は衣服が汚れることなど一ミリも気にしなかった。彼女の顔から、あの絶対的な支配者の笑みが完全に消え失せ、初めて本物の焦燥と恐怖がその瞳に走った。
「大輔さん!? 大輔さん、しっかりしてください! どうしたの、何が起きたの!?」
美咲はベッドに飛びつき、高橋の激しく震える身体を必死に抱きしめた。高橋の身体は信じられないほど熱く、高熱を発していた。発作は数分間続き、やがて高橋は全ての力を失ったように、泥のように意識を失った。呼吸は浅く、心拍数を刻む医療用モニターのアラーム音が、ピー、ピー、ピーと静かな密室にけたたましく鳴り響き続けていた。
普通の人間のストーカーであれば、ここでパニックを起こして救急車を呼ぶか、あるいは獲物を山中に遺棄して逃亡を図るだろう。しかし、相原美咲の狂気は、すでに常人の理解の及ばない領域へと純化されていた。
「大輔さんを病院に連れて行くなんて絶対に駄目。そんなことをしたら、あの汚い外の世界の悪魔たちが、また大輔さんを私から奪い取ろうとするに決まっているわ。大輔さんは私のお人形。私の世界でしか生きていけないの。だったら……私がここで、あなたを治療してあげる」
美咲は意識を失った高橋の額を優しく撫でながら、信じられないほど冷徹な声で呟いた。彼女の眼鏡の奥の瞳に、新たな、そしてより凶悪な決意の光が宿った。
その日からの美咲の行動は、迅速かつ異常だった。
彼女は高橋をベッドに拘束したまま、大型のワンボックスカーを駆って、深夜の都心や地方の医療問屋街へと何度も往復した。会社を辞めるまでに営業部の事務職として蓄えた数千万円にのぼる預金と、ネットの闇ルートを駆使し、彼女は個人では絶対に手に入らないはずの「本物の医療機器」を次々と買い集めていった。
数日後、あの和風の障子戸と青畳で飾られていた『箱庭』は、跡形もなく解体された。
代わりに寝室へと運び込まれたのは、本物の病院の集中治療室(ICU)で使用されるような、ステンレス製の無機質な医療用架台や、生体情報モニターの最新機種、そして――高橋の腕に直接栄養と薬剤を送り込むための『輸液ポンプ(点滴システム)』だった。
部屋の空気は、イグサの香りから、鼻を刺すような冷たい消毒液の匂いへと完全に塗り替えられた。美しい和風の別荘は、誰の目にも触れない山奥の診療所、いや、高橋大輔という肉体を永続的に生かし続けるための『生体管理工場』へと変貌を遂げたのだ。
高橋が再び目を覚ました時、彼の視界に飛び込んできたのは、漆黒の壁の前に並ぶ、何台もの電子機器の冷たい光だった。彼の左腕の静脈には、太い注射針が深く突き刺さっており、そこから透明なチューブが、天井から吊るされた塩化ビニール製の点滴バッグへと伸びていた。チューブの中を、一滴、また一滴と、規則正しく透明な液体が滑り落ちていく。
「気が付きましたか、大輔さん。もう大丈夫ですよ。これからはね、お口からご飯を食べなくても、この機械があなたの身体を完璧に管理してくれますからね」
白衣のような真っ白なガウンを身に纏った美咲が、手元に分厚い医学書と注射器を抱えながら、ベッドの横で不気味に微笑んでいた。全体の59%から進み、第61話において、二人の監禁日常は「食事の介助」という生ぬるいフェーズを完全に脱却した。高橋大輔という人間は、肉体のシステムごと、美咲の構築した電子と点滴の檻へと完全に組み込まれていくのだった。




