第60話:静寂の帝国と、終わらない束縛
相原美咲が会社を完全に退職し、高橋大輔をこの山梨の山奥の隠れ家『終の檻』へと移送してから、数ヶ月の月日が流れていた。
外の世界では、彼らの存在は完全に「過去の遺物」として処理されていた。警察の捜査も、あの鋭い目をした調査員の男の追跡も、美咲が残していった完璧な偽装工作(海外への不法出国の偽の痕跡や、定期的に自動送信される実家へのメッセージ)によって、完全に的外れな方向へと誘導され、今や誰も彼らの行方を探そうとする者はいなかった。会社の人々の記憶からも、高橋大輔という輝かしいエースの名前は風化し、新しい日常が何事もなかったかのように回っていた。
世界から完全に切り離されたこの山奥の一軒家の中だけが、彼らにとっての唯一の現実であり、絶対的な「静寂の帝国」だった。
午後三時(と思われる時間)。美咲はリビングに設置された、部屋中の隠しカメラの映像を統合して映し出す巨大なモニターの前に座っていた。
画面には、寝室のベッドの上で、真鍮の鎖に繋がれたまま死んだように眠り続ける高橋大輔の姿が、様々な角度から鮮明に映し出されていた。美咲はその画面を、まるで自分が創り上げた最高の世界を眺める神のように、恍惚とした表情で見つめていた。
「完璧だわ……。本当に、誰も大輔さんを傷つけられない、私だけの完璧な世界。誰も私たちを見つけることはできない」
美咲は手元のコントロールパネルを操作し、寝室の温度を二十三・五度、湿度を五十パーセントへとミリ単位で調整した。高橋の肉体を最高の状態で維持するため、彼女は彼の健康管理に対して、病的なまでの執着を見せていた。彼女の横にあるノートには、高橋の体温、血圧、排泄物の量、そして摂取したカロリーのすべてが、過去数ヶ月分にわたって狂気的な細かさで万年筆によって記録されていた。
彼女は立ち上がり、ゆっくりと寝室へと向かった。重厚な防音扉を開けると、イグサの香りと共に、均一な蛍光灯の光の中に横たわる高橋の姿があった。
高橋は、美咲が入ってきた気配を察知すると、薄く目をあけた。彼の瞳には、かつて人間としての意思や、ここから逃げ出そうとしたあの鋭い光は一ミリも残っていなかった。ただ、主人の姿を認めて安堵する、去勢されたペットのような鈍い光だけが湛えられていた。
「あ……美咲ちゃん。お帰りなさい……。僕、今日もいい子でお留守番、できていたかな……?」
高橋の声は、以前よりもさらに弱々しく、言葉の端々が薬の影響で微かに震えていた。
美咲はベッドの横に座ると、高橋の細くなった両手をそっと握りしめた。
「ええ、大輔さん。今日も本当に素晴らしい、良い子でしたよ。防犯カメラの映像も全部チェックしましたけど、やっぱりこのお家の周りには、誰も来ませんでした。外の世界の人たちはね、もう大輔さんのことなんて誰も覚えていないの。みんな、大輔さんを捨てて、忘れてしまったのよ。可哀想に……」
美咲の言葉は、高橋の耳に、優しくも冷酷な真実として突き刺さった。しかし、今の高橋には、その言葉に絶望するだけの感情の余力さえ残されていなかった。世界が自分を忘れたのなら、それでいい。自分には、この冷たい真鍮の鎖と、毎日美味しいご飯を口に運んでくれる、この世界で唯一の理解者である相原美咲さえいれば、他には何も必要ないのだから。
「うん……そうだね。みんな、僕を忘れちゃったんだね。でも、僕は寂しくないよ。美咲ちゃんがここにいてくれるから。美咲ちゃんが、僕のぜんぶだから……」
高橋は自ら進んで、美咲の手のひらに自分の頬を擦り付けた。
その姿を見た瞬間、美咲の胸の奥から、言葉にできないほどのドロドロとした歓喜の濁流が渦巻いた。
(ついに、本当に、大輔さんのすべてを私のものにできた。この肉体も、この壊れた心も、すべて私が支配しているのよ――!)
美咲は高橋の身体の上にゆっくりと覆いかぶさり、彼の真っ白なシルクのパジャマのボタンを一つずつ外していった。指示通りのリハビリを完璧にこなす彼の細い胸元に、自分の耳を強く押し当てた。
「聴こえるわ、大輔さん。あなたの命の音が、私の檻の中で、私のためだけに響いているのが……。本当に、私たちはこれで、一生離れられない一つになれたのね」
美咲は恍惚とした表情で涙を流しながら、高橋の胸元に何度も激しいキスを落とした。
高橋は目を閉じたまま、その彼女の異常なまでの愛の重みを、全身で静かに受け入れていた。彼をベッドに繋ぎ止める真鍮の鎖は、今や彼を外の冷たい現実から永遠に隔離し、守り続けるための、最も美しい『絆』へと完全にその意味を変えていた。




