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歪んだ愛  作者: S.S
第八章 無響のケージ

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第59話:灰色の記憶と、電子の楔

その部屋には、時間という概念を測定するための「影」すら存在しなかった。

一般的な人間が暮らす世界であれば、窓から差し込む朝日の角度の移り変わりや、夕暮れ時に壁の端へと長く伸びていく家具の影、あるいは夜の帳が下りる際の大通りに灯る街灯の淡い明かりによって、人は無意識のうちに時間の経過を肉体で感知する。しかし、周囲のどの民家からも数百メートルは離れた山梨の深い山中に佇むこの『終の檻』は違った。窓という窓がすべて、内側から厚さ数ミリの頑丈な鉄板によって完全に溶接され、壁一面から天井、床に至るまでの全空間が、光を一切反射しない漆黒の防音ウレタン吸音材によって隙間なく埋め尽くされていた。この部屋の中では、一日二十四時間、常に天井に取り付けられた人工的な白い蛍光灯の光だけが、世界のすべてを均一に、そして冷酷に照らし続けていた。

高橋大輔にとって、目を開けている時間すべてが永遠の「昼」であり、同時に底知れない「夜」でもあった。枕元に置かれていた、かつて社会との繋がりを証明していたスマートフォンはとっくに処分され、時間を告げる時計の針の音もない。あるのはただ、彼の細くなった胸元に取り付けられた医療用モニターがコチ、コチと電子的なビートを刻む音と、キッチンの横に置かれた大型の加湿器が数分おきにプシューと白い霧を吐き出す、あのベリー系のフローラルな香水の不気味な噴霧音だけだった。

「大輔さん、お肌の水分量が少し落ちていますね。今日も私の手で、綺麗に保湿のクリームを塗ってあげますね。じっとしていてくださいね」

相原美咲の声が、音を完全に吸い込む無響室のような静寂の空間に、妙にクリアな輪郭を持って響き渡った。

今日の彼女は、清楚な白いシルクのブラウスに、深いネイビーのロングスカートという、かつて中堅企業の営業部で出会った頃を彷彿とさせる装いをしていた。しかし、その眼鏡の奥にある濁った黒い瞳には、職場の大人しい事務職の後輩としての従順さは微塵も残っていなかった。彼女はこの絶対的な帝国の女王であり、目の前で鎖に繋がれた男を永遠に飼育し、維持し続けることだけを至上の生きがいとする、純化された捕食者だった。

美咲は冷たい手のひらに真っ白な高級クリームを伸ばすと、ベッドの上で両手両足を固定された高橋の顔、そして首筋へと優しく、しかし丹念に、皮膚の細胞一つ一つに染み込ませるようにして擦り込んでいった。

高橋はその手の温もりを感知した瞬間、条件反射のように小さく身体を震わせ、自らゆっくりと、鳥の雛のように口を開けた。かつてこの密室から脱出しようと、裸足でマンションのエントランスまで駆け抜け、深夜の自動セキュリティという絶望的な壁に阻まれて泣き叫んだあの激しい生存本能は、数え切れないほどの調教と強い薬物の投与によって、彼の脳から完全に去勢されていた。

美咲は、強い筋弛緩剤と鎮静剤が大量に混ぜ込まれた、琥珀色のどろりとしたシロップ薬をスプーンでベースとなるスープに混ぜ、彼の唇へと差し出した。高橋は喉の奥を鳴らしながら、その甘苦い液体を静かに、一滴も零さないように喉の奥へと流し込んでいった。

「美味しい? 大輔さん。あなたが私の与えるものだけを食べて、私の匂いだけで満たされていくのを見るのが、私の人生のすべてなんですよ」

美咲は本当に愛おしそうに微笑みながら、高橋の口元を清潔なレースのハンカチで丁寧に拭い取った。そして、そのハンカチを自分の鼻腔に強く押し付け、彼の唾液と薬の混ざった匂いを体内に取り込むように深く息を吸い込んだ。

「うん……すごく美味しいよ、美咲ちゃん。僕、今日も君のことだけを考えて、ボールを握る運動をちゃんとやったんだ……。ホワイトボード、見てくれた……?」

高橋の口から漏れる声は、かつて社内を魅了した美声の面影を完全に失い、どこか母親の顔色を伺う幼児のように、か細く不明瞭だった。

彼は自分の左手を弱々しく動かし、ベッドの横のホワイトボードを指差した。そこには、彼が午前中にこなしたリハビリの回数『四百回』という数字が、左手で書かれた歪な文字で残されていた。美咲の機嫌を損ねれば、夜の食事が与えられず、ただ暗闇の中で強い眠り薬を飲まされるだけの恐怖を、彼の肉体は完全に学習していたのだ。

高橋の脳内からは、かつて自分を救おうとして会社に現れたあの調査員の姿や、他部署の受付だった吉川香織の顔、セピア色に褪せていく営業部の景色の記憶が、激しい霧の向こうへと綺麗に消去されていた。人間の脳とは恐ろしいもので、あまりにも過酷な現実と完全な断絶の中に置かれ続けると、自らの正気を守るための防衛システムとして、過去の記憶を「不要なノイズ」として完全に処理し、現在の生存のために支配者への絶対服従を最大の快楽として受け入れるように、神経のネットワークそのものが書き換えられるのだ。

「ええ、もちろん見ていましたよ、大輔さん。大輔さんが頑張っている姿、私、リビングの監視モニターで一分一秒も見逃さずにずーっと見守っていましたからね。本当に偉いです、私だけの可愛い大輔さん」

美咲は高橋の額に自分の額を重ね合わせ、その瞳の奥にある魂のすべてを自らの狂気で呪縛するようにじっと見つめた。

高橋はその強い視線から目をそらすことはしなかった。彼にとって、この無音の恐怖に満ちた世界の中で、相原美咲という一人の少女の存在だけが、自分がここに生きていて良いという、唯一の灯火であり、絶対的な救いだったからだ。

「さあ、お薬が効いてきましたね。今夜も私と一緒に、外の汚い悪魔たちが誰も来ない、静かで綺麗な夢の底へ行きましょうね」

美咲は高橋の身体を再びベッドへと横たわらせ、胸元まで優しく毛布を掛け直した。

数分後、薬の成分が急速に彼の全身の血管へと巡り始める。手足の先から感覚が完全に消え去り、頭の中が温かい泥の中に沈み込んでいくような、圧倒的な全能感と平穏が高橋を包み込んだ。自分の意思で何かを考えるという行為そのものが、果てしなく遠く、面倒なノイズに思えてくる。何も考えなくていい。ただ、この真鍮の鎖に守られた人工の揺り籠の中で、聖母の嘘を唯一の真実として受け入れていれば、二度とあの孤独な暗闇に怯える必要はないのだ。

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