第54話:断絶のチェックメイト
相原美咲が会社を完全に退職し、高橋大輔を連れて山梨の山奥へと失踪してから、外の世界では彼らの存在が完全に「迷宮入り」の引き出しへと仕舞い込まれようとしていた。
かつて高橋の行方を追っていた大学時代の友人や、あの調査員の男も、完全に手詰まりになっていた。美咲が残していった完璧な偽造の退職届、本人の筆跡を模した実家への定期的なメッセージ、そして彼らのスマートフォンが最後に捉えたGPSの位置情報がすべて「東京の主要駅」や「海外への出発ロビー周辺」を意図的に経由して偽装されていたため、警察も周囲の人間も、彼らが自発的に世間から身を隠し、あるいは海外へ不法に出国したのだろうという結論に達さざるを得なかったのだ。
外の世界にとって、高橋大輔と相原美咲は、もう探す価値さえ失われた「過去の亡霊」に過ぎなかった。
しかし、その亡霊たちが生きるこの無響の一軒家の中だけは、世界で最も濃密で、最も純度の高い『愛の監禁日常』が、一分の狂いもなく執行され続けていた。
「大輔さん、お食事の後は、いつものお薬の時間ですよ。これを飲んで、今日も私と一緒に、誰も来ない静かな世界へ行きましょうね」
夕方(と思われる時間)、美咲はホワイトボードの管理データをチェックした後、琥珀色の甘いシロップ薬をなみなみとスプーンに注いだ。
高橋はもう、その薬が自分の肉体を無力化し、思考を奪う毒であることを理解していた。しかし、彼の中にそれを拒絶する意思は一ミリも残っていなかった。彼は自ら進んでベッドの上で口を開け、その液体を美味しそうに飲み干した。
数分後、全身の神経が麻痺していく心地よい浮遊感が、高橋の身体を包み込んだ。
手足の感覚が遠のき、頭の中が温かい綿で満たされていくような全能感。何もしなくていい。誰も自分を責めないし、誰も自分を拒絶しない。この冷たい真鍮の手錠と足枷の感触こそが、自分がここに存在していいという、世界で唯一の許可証のように思えてならなかった。
美咲は、薬の効果でゆっくりと目がトロンとしていく高橋の横に横たわり、彼の細くなった身体を優しくその腕の中に抱き寄せた。
「大輔さん、今日ね、お庭の防犯カメラの映像を確認したんですけど、やっぱり誰も来ませんでした。ウサギさんや小鳥さんが時々通るだけで、人間の足音なんて一回も聞こえないの。本当に、ここは私たちだけの楽園ですね」
美咲は高橋の髪に指を絡めながら、恍惚とした表情で呟いた。
高橋は彼女の胸の温もりに顔を埋めながら、「うん……そうだね、美咲ちゃん。誰も来なくていいよ。僕、ここに美咲ちゃんと二人だけでいられれば、それだけで本当に幸せなんだ」と、脳を麻痺させられた掠れた声で何度も繰り返した。
高橋大輔は、自分が自らの意思でこの平穏を選んでいると、心の底から思い込まされていた。
しかしその実、彼は美咲が何年もかけて緻密に張り巡らせた「孤立のクモの巣」の最奥に囚われ、五感を奪われ、薬によって正気を去勢された、ただの生ける人形に過ぎなかった。彼を守るはずの『真鍮の鎖』は、彼から人間の尊厳を永遠に剥奪するための、最も冷酷なチェックメイトの象徴だったのだ。
美咲は高橋の静かな寝息を耳元で聴きながら、手元のスマートフォンを操作し、部屋の四隅に仕込まれた隠しカメラのライブ映像をぼんやりと眺めた。画面の真ん中で、真っ白なパジャマを着て手錠に繋がれた完璧な男と、それを抱きしめる自分の姿が、電子の眼によって24時間、美しく静かに記録され続けていた。




