第55話:形骸のレクイエム
時間が凍結したかのような無響の空間において、高橋大輔という人間の内面は、ゆっくりと、しかし確実に崩壊の一途をたどっていた。
天井の蛍光灯が放つ無機質な白い光は、彼の細く衰弱した肉体を容赦なく照らし出し、肌の血色は日を追うごとに失われ、まるで精巧に作られた蝋人形のような質感を帯び始めていた。かつて営業部のエースとして、大勢の部下やクライアントの前で堂々とプレゼンテーションを行い、その張りのある声と理知的な瞳で人々を魅了していた高橋大輔は、もうどこにもいなかった。
現在の彼に許されている世界は、この二メートル四方の青畳の上と、右手首と両足首をベッドに繋ぎ止める真鍮の鎖の可動範囲だけだった。
「大輔さん、お目々を開けてください。お昼(と思われる時間)の、特別な特製ジュースを持ってきましたよ」
相原美咲の声が、吸音材に囲まれた漆黒の壁に吸い込まれながら、高橋の耳元へとダイレクトに届いた。
彼女は今、上品な光沢を放つシルクのルームウェアを纏っていた。会社という社会的なコミュニティを完全に捨て去り、この山奥の隠れ家で二十四時間を高橋の管理だけに捧げるようになってから、彼女の美しさはどこか人間離れした、背筋が凍るような神聖さを帯び始めていた。彼女にとって、高橋大輔という存在は、もはや恋愛の対象という枠を完全に超え、自らの手で完璧に調教し、維持し続ける「最高のアートピース」だった。
美咲はベッドの横に置かれたトレイから、何種類もの野菜や果物、そして高橋の筋肉の衰えを防ぐための医療用プロテインを緻密に調合して作った、緑色の濃厚な液体が注がれたグラスを取り出した。もちろん、その中には、高橋の抵抗する気力を根本から奪い去り、脳の働きを常に微睡みの状態に留めておくための、あの琥珀色の強い鎮静剤が大量に混ぜ合わされていた。
高橋は美咲の手が自分の首筋に触れた瞬間、条件反射のように小さく身体を震わせ、自らゆっくりと口を開けた。
かつては薬を吐き出そうと足掻き、この密室からの脱出を誓って裸足でエントランスまで走り抜けたあの激しい生存本能は、数え切れないほどの調教と五感の剥奪によって、完全に去勢されていた。今の彼の脳は、美咲から与えられる液体を飲み込み、彼女の望む通りの従順な人形で居続けることこそが、この無音の恐怖から逃れるための唯一の最適解であると、細胞のレベルで理解していた。
美咲は高橋の頭を優しく左腕で抱き起こし、グラスの縁を彼の唇へと当てた。
高橋は喉の奥を鳴らしながら、そのドロリとした甘苦い液体をごくごくと音を立てて飲み干していった。緑色の液体が彼の口元から一滴だけ零れ、真っ白なシルクのパジャマの胸元へと緑色の小さな染みを作った。
「ふふ、大輔さん、お口が汚れてしまいましたね。本当に、私がお世話をしてあげないと、何もできない可愛い赤ちゃんみたい」
美咲は本当に嬉しそうに目を細めると、ポケットから清潔なハンカチを取り出し、高橋の唇とパジャマの汚れを丁寧に、何度も何度も優しく拭き取った。そして、そのハンカチに付着した高橋の唾液と液体の混ざった匂いを、自分の鼻腔の奥深くへと愛おしそうに吸い込んだ。
「美咲ちゃん……。僕、今日もいい子にしていたよ。ボールを握る運動も、ホワイトボードの通りに、ちゃんとやったんだ……」
高橋の口から漏れた声は、掠れ、幼児退行したかのように不明瞭だった。
彼は自分の左手を弱々しく動かし、ベッドの横のホワイトボードを指差した。そこには、彼が午前中にこなしたリハビリの回数『三百回』という数字が、左手で書かれた歪な文字で残されていた。
「ええ、知っていますよ、大輔さん。大輔さんが頑張ってボールを握っている姿、私、リビングのモニターでずーっと見ていましたからね。偉いです、本当に私の自慢のお人形」
美咲は高橋の額に自分の額を重ね合わせ、その濁った黒い瞳で、彼の魂の奥底までを完全に自らの色で塗り潰すようにじっと見つめた。
高橋はその強い視線から目をそらすことはしなかった。そらすという発想さえ、彼の脳からはすでに失われていた。彼にとって、この世界のすべての光と音、そして善悪の基準は、目の前にいる相原美咲という一人の少女の表情によってのみ決定されるのだ。
「もうすぐ、お薬が効いてきますね。今夜も私と一緒に、外の悪い悪魔たちが誰も来ない、静かで綺麗な夢を見ましょうね」
美咲は高橋の身体を再びベッドへと横たわらせ、彼の胸元まで優しく毛布を掛け直した。
数分後、薬の成分が急速に高橋の全身の血管へと巡り始める。手足の先から感覚が完全に消え去り、頭の中が温かい泥の中に沈み込んでいくような、圧倒的な全能感と幸福感が彼を包み込んだ。自らの意思で何かを考えるという、人間としての最も基本的な行為が、果てしなく遠く、面倒なノイズに思えてくる。何も考えなくていい。ただ、この真鍮の鎖に守られた檻の中で、聖母の嘘を真実として受け入れていれば、二度とあの孤独な暗闇に怯える必要はないのだ。
高橋の視界がゆっくりと暗転し、完全に形骸化した彼の精神は、美咲が奏でる無音のレクイエムを聴きながら、深い微睡みの底へと落ちていった。




