第49話:終焉の仮面
金曜日の午前九時。オフィスへと出社した相原美咲のデスクの上には、一枚の白い封筒が置かれていた。
それは、彼女が昨夜の内に自宅のパソコンで完璧に作成し、今朝一番に課長へ手渡した「退職届」だった。理由は「実家の家業を手伝うため、急遽地元へ戻ることになった」という、至って平凡で、誰も深く追及しようとは思わないありきたりなものだった。
「相原さん、本当に急だね。優秀な君がいなくなると、営業部の事務が回らなくなっちゃうよ」
課長は本当に残念そうな顔をして、美咲の退職届をファイルに収めた。
昨日、高橋大輔の件で調査員がフロアに現れたことで、社内には再び不穏な空気が流れ始めていた。美咲は、その外の世界のノイズが自分の聖域に到達する前に、すべての繋がりを自ら切断することを決意したのだ。
「申し訳ありません、課長。私も急なことで、皆様にご迷惑をおかけして本当に心苦しいのですが……。引き継ぎの資料は、共有サーバーのフォルダにすべて完璧にまとめてありますので」
美咲は、これ以上ないほど健気で、申し訳なさそうな「いつもの仮面」を貼り付けて頭を下げた。
フロアの社員たちは、彼女がまさか数ヶ月前に失踪した高橋大輔を自分のマンションに監禁し、手錠と足枷でベッドに固定して飼育しているなどとは、夢にも思っていなかった。彼女は今日一日、いつも通りに完璧に仕事をこなし、誰に対しても親切な後輩であり続けた。
午後五時五十五分。定時を告げるチャイムが鳴る五分前、美咲は自分のデスクの上の私物を、小さな段ボール箱へとすべて詰め終えた。
ペン立て、お気に入りのマグカップ、そして、かつて高橋大輔が愛用していたあの黒いボールペン。
「相原さん、今まで本当にお疲れ様。地元に戻っても元気でね」
同僚の女子社員たちが、美咲のデスクの周りに集まり、小さな花束とお菓子の詰め合わせを手渡してくれた。美咲は「ありがとうございます。皆様もお元気で」と、涙ぐむ演技を交えながら、一人ずつ丁寧に握手を交わした。
午後六時。定時のチャイムがオフィスに鳴り響くと同時に、美咲は段ボール箱を両手で抱え、営業部のフロアを後にした。
エレベーターに乗り、一階のロビーへと降りる。自動ドアを潜り抜け、夕暮れ時の都心の街へと一歩を踏み出した瞬間、美咲の眼鏡の奥の瞳から、すべての生気が消え去り、代わりに冷酷で圧倒的な全能感の光が宿った。
これで、終わりだ。
彼女を社会に繋ぎ止めていた、相原美咲という「無害な事務職」の螺旋は、今この瞬間をもって完全に消滅した。彼女の人生のすべては、これからあの密室の中で、高橋大輔という最高の人形を永遠に支配するためだけに使われる。
「待っていてね、大輔さん。これで私は、24時間、ずっとあなたのもの。あなたも、ずっと私のものよ」
美咲は段ボール箱を強く抱きしめ、夜の帳が下りる目黒の街へと、音を立てて急行するのだった。




