第48話:狂気のカウントダウン
午後六時三十分。定時のチャイムが鳴ると同時に、相原美咲は誰よりも早く会社を後にした。
彼女の足取りは、いつものように穏やかなものではなかった。ヒールの音が夜の目黒の住宅街に激しく響く。バッグの中には、今日のオフィスに現れた調査員の男の名刺が、細かく引き裂かれた状態で入っていた。彼女はマンションのオートロックを開け、302号室の扉を潜り抜けると、乱暴に障子戸を開け放った。
「――大輔さん、ただいま戻りました」
美咲の声は、いつもより少しだけ低く、焦燥を含んでいた。
ベッドの上で右手首を繋がれていた高橋大輔は、彼女の異様な雰囲気を察知したのか、ビクッと身体を震わせ、すがるような瞳で彼女を見上げた。彼の精神は完全に調教され、美咲の機嫌の波こそが彼の世界のすべてになっていた。
「美咲ちゃん、お帰りなさい……。あの、何か、怒っているの……? 僕、今日もリハビリ、ちゃんと目標通りにこなしたよ」
高橋はか細い声を絞り出し、ホワイトボードの数字を左手で指差した。しかし、美咲はその数字に目もくれず、ベッドの横にドサリと膝をつくと、高橋の身体を狂ったような強さで抱きしめた。
「大輔さん、大輔さん……。外の世界の人たちがね、またあなたを私から奪おうとしているの。あなたの過去の、目障りな偽物の友達が、探偵を使ってあなたの居場所を探そうとしているのよ。本当にしつこくて、汚くて、反吐が出るわ」
美咲は高橋の首筋に顔を埋め、激しく呼吸を繰り返した。その小さな両手が、高橋の背中の皮膚に爪を立てるほど強く食い込む。
「え……? 探偵……? 誰かが、僕を……?」
高橋の脳裏に、一瞬だけ、かつて一緒に酒を飲み交わした大学時代の友人たちの顔が霧の向こうから浮かび上がった。自分を助けに来てくれる人間がいるのだろうか。この暗い密室から、人間の世界へと連れ戻してくれる光があるのだろうか。
しかし、その微かな希望の光は、美咲の次の行動によって一瞬にして圧殺された。
「大輔さん、そんな人たちのこと、考えちゃ駄目。あの人たちは、あなたの本当の良さを何も分かっていない。あなたを傷つけて、私の檻から引きずり出して、またあの地獄のような競争社会に戻そうとしている悪魔なのよ」
美咲は顔を上げると、高橋の顔を両手で強く固定し、その濁った黒い瞳で彼のすべてを呪縛するように凝視した。
「大輔さんは、私だけの赤ちゃん。私だけの最高のお人形。だから……もっと安全な場所に、引っ越しをしましょうね。誰も私たちの名前を知らない、誰も近づけない、本当の隠れ家へ」
美咲はそう言うと、バッグの中から、これまで高橋に見せたことのない、さらに重厚な金属製の器具を取り出した。それは、右手首だけでなく、彼の両足をも完全にベッドに固定するための『足枷』だった。
「あ……美咲ちゃん、それは……」
高橋の瞳に、本能的な恐怖が再び蘇る。しかし、美咲の顔に浮かんでいたのは、これまでにないほど恍惚とした、絶対的な愛の笑みだった。
「大丈夫ですよ、大輔さん。これを付ければ、外の悪い悪魔たちが万が一ここに入ってきても、大輔さんを連れ出すことはできませんからね。私たちがずっと一緒に行くための、約束の鎖です」
美咲は高橋の抵抗を許さない速さで、彼の両足首に冷たい鉄の輪を嵌め、カチャリ、カチャリと重いロックの音を響かせた。
これで高橋大輔は、上半身をわずかに起こすこと以外、寝返りを打つことさえ不可能な、完全なる『肉体のケージ』へと閉じ込められた。
美咲は満足そうに微笑むと、キッチンへと向かい、今夜の分の強い鎮静剤を含んだ琥珀色のシロップ薬を、並々とスプーンに注いだ。
「さあ、大輔さん。お薬を飲んで、静かに眠りましょう。明日から、新しいお家の準備を始めますからね」
高橋はもう、涙を流す気力さえ残されていなかった。彼は諦めたように口を開け、彼女の与える甘い毒を静かに飲み下した。
薬が脳を麻痺させていく中、高橋の視界はゆっくりと暗闇へと閉ざされていった。




